後の祭り、祭りの後

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 ふらふらと、壁やら何やらにぶつかりながら、俺は玄関にたどり着いた。
 階段でこけた俺を心配してくれた長門にひどい言葉をぶつけちまった。長門のあの息を呑む気配が忘れられない。顔もまともに見られずに、そのままここまで逃げて来た。はは、最悪だな、俺。
 思い出した出来事の衝撃が尾を引いている。衝撃ったって、何かされたわけじゃない。ただ、何も出来なかっただけだ。悔しいくらいに。
 忘れたい。なんで思い出しちまったんだろう。忘れれば、楽になれるんだろうか。
 ……SOS団の面々の顔を、あの賑やかに色んな物が置かれている文芸部室を、古泉を、思い出す。知らなきゃよかった、あいつらのことを。
 下駄箱にたどり着いた俺は、コートのポケットに突っ込んでいた手を出し……その拍子に、同じくポケットに突っ込んでおいた、携帯が袖にひっかかったか何かして、床に落ちた。
 ああ、しまったな、と、特に感慨も湧かず、落ちたそれを眺める。のろのろと手を伸ばして取り上げると、また、うっかりサイドボタンを押してしまった。イルミネーションと、サブウインドウが灯る。
 12月20日。時刻は昼。……メール着信一件あり。
 いつの間に来ていたんだろう。携帯をマナーモードにしてたわけでもないのに、気がつかなかった。
 めんどくせえと思いつつ、携帯を開いて、そのメールをチェックする。
 本文を見て、俺はさっきからショックでぼんやりしていた頭がその瞬間だけ一気に醒める気がした。

『送信者:Yuki.N
 件名:なし
 本文:
 これは緊急消去プログラムである。
 世界交換に関わるこの三日間の記憶を思い
 出した場合に発動する。
 記憶の持ち越しが精神的負担となることが
 予想されるため、それに対する措置プログ
 ラム。起動すると実行後消去される。
 このプログラムを起動する場合は返信を、
 そうでない場合はメールを消去せよ。
 なお、このプログラムに期限はなく、消去
 しない限りいつでも起動可能である。』

「…………」
 まじまじと、眺めた。それは、明らかに向こうの長門からのメッセージだった。
 緊急消去。今さっき思ったことだ。忘れたい、思い出さなけりゃよかった。あっちの長門は周到な奴だな。これも予想済みだったってのか?
 かなりの時間、俺は携帯を開いたままぼんやりとしていた。そして……結局決断できないまま、携帯を閉じた。


 玄関を出ると、冷たい風が吹き付ける。俺は身震いしながら、肩をすくめ、マフラーに顔を埋めた。うつむけば、見えるのは地面ばかり。
 だから、気づかなかった。
 俺が校門を抜けたとたん、後ろから伸びてきてマフラーを引っ張りやがった馬鹿力な細腕に。
「うおっ!?」
 いきなり加わった力に、俺は鞭打ちになるかと思うくらいの勢いで後ろに引っ張られる。
「な、なにしやが……」
 危うくこけそうになるところを踏ん張って振り返り、咳き込みながら抗議したその先には。
 風になびくしなやかな長い黒髪。ぎりぎりと今にも刺しそうな激しい眼差し。その後ろに控える、色素の薄い髪、長身。
 髪の長い、黒いコートを着た涼宮ハルヒと、これまた同じようなコートを着た古泉一樹が、そこにいた。
「やっぱりいた……見つけたわ、ジョン・スミス!ねえ古泉くん、実在してたわよ、こいつ。やっぱりあれはただの夢なんかじゃなかったのよ!」
 俺が驚く暇もあればこそ。涼宮は古泉に向かってわけの分からんことをまくし立てている。
 かと思うと、俺のマフラーを乱暴にぐいっと引っ張って俺の顔を引き寄せる。目の前に、猛獣のような顔つきの涼宮がいた。
「ここで張ってれば確実だろうと思ってたけど……もう逃がさないわよ。あれは一体どういうことだったのか説明しなさいよ!」
 な、なんのことだ。つうか苦しいしゃべれねえ息もできねえ。
 俺が思わず助けを求めて古泉を見ると、古泉は我に返ったような顔で、涼宮の肩に手をかけた。
「す、涼宮さん、あまり乱暴なことは……」
「なによ古泉くん!あなただって気になったからここまで来たんでしょ?ようやく謎が解けるのよ!さあ吐きなさいジョン!あの三日間は本当にあったことなの?あんた本当は何者?緊急脱出プログラムって何だったの?」
 し、知るか。俺はただのうちひしがれた一般人だ。ていうか耳慣れない単語が今聞こえたぞ、俺が聞きたいくらいだ。
「……っこの!とぼけんじゃないわよ!」
 首を絞められた俺が切れ切れに反論した言葉は涼宮をますます激昂させたようだった。がっくんがっくんと揺さぶられ、首は絞まるし脳震盪は起こしそうになるし、あ、ちょっとくらくらしてきた。
「涼宮さん、涼宮さん!そんなことをしていたら彼が倒れてしまいます。話どころじゃなくなりますよ!」
 おお、そうだ古泉なかなかいいことを言う。
 と、急に、乱暴に突き放されて、頭の中身を存分にシェイクされた俺は、そのまま尻餅をつくように地面にへたり込んだ。
「……ちょっと、あんたまさかと思うけど本当に何も知らないの?」
 睥睨するような涼宮の視線。俺はこのときになってやっと気づいた。こいつらが来てる黒コート、見覚えがあると思ったら、坂の下にある進学校の指定コートじゃねえか。こんなとこで他校の生徒に絡んでたら、ヤバイんじゃねえのか?
「はぐらかさないでよ!」
「涼宮さん!……すみません、突然乱暴をして。もしこのあとお時間があれば、僕たちの話に少々お付き合い願えませんか?ここではなんですから、どこか落ち着いて座れるところに場所を移して」
 今にも地団駄を踏みそうな涼宮をなだめながら、古泉が俺に手を差し出し、言った。
 ……この手を取るか、否か。
 目の前のこいつらは、そっくりではあるが、SOS団の涼宮ハルヒと古泉一樹じゃない。俺にとっては、あのハルヒでなければ、あの古泉でなければ、意味がなかったはずだ。でもあいつらは向こうの『俺』のもので、俺のものにはならない。
 差し出された古泉の手、黒い手袋をはめて、こんな時でもスタイリッシュに決まってやがる。
 それをどのくらい、見つめただろうか。
 俺はよろよろと、手を伸ばした。どうせ俺が「知らん。人違いだろ」と言って背を向けたところで、この涼宮は収まりが付かなさそうだしかえって厄介なことになりそうだ。というか背を向けた瞬間ドロップキックあたりをかましてきかねない。だったらここは古泉の申し出に応じて話をつけた方がマシってもんだ。……というのが、俺の脳内会議がひねり出した言い訳だった。
 あまりにも、こいつらは涼宮で、古泉だった。別人なのに。


「……それじゃ、あんたはジョン・スミスとは別人だって言うのね?」
 おうよ。俺の答えに、涼宮はまた刺すような視線を向けてくる。
 俺が古泉の手を借りて立ち上がったあと、涼宮は有無を言わさず俺を坂の下の喫茶店まで連行した。なんと豪勢なことにタクシーをつかまえて。代金を出したのは古泉だ。お前都合よく使われてんな。
 そして入った喫茶店で、俺の向かいに並んで座る美男美女――ええい忌々しい。古泉と涼宮のことだ――から、彼らがこの三日の間に見た夢の話をされた。夢の中で、彼らはもうひとつの12月18日から20日を経験した。
 18、19日と退屈で憂鬱な日々を過ごした彼らの前に、20日の放課後、突然現れたジョン・スミス。
 涼宮は中1の頃、呆れたことに自分の通う学校の校庭に宇宙人宛の巨大幾何学模様メッセージを描いたことがあるそうなのだが、夢の中ではそれを手伝った男がいることになっていたそうだ。
 その男こそが、ジョン・スミス。三年の時を経て涼宮の前に現れたそいつは、SOS団なる奇天烈な団体に所属し、宇宙人未来人超能力者、そして神様と一緒に遊ぶ日々を送っていたが、ある日世界が突然に変わってしまったと話した。世界を元に戻すため、手がかりを求めて涼宮達に会いに来たのだという。
 要するに、ジョン・スミスってのは、入れ替えられたもう一人の俺のことだった。長門から、もう一人の俺は選択権を与えられたと、そのために記憶をいじられることもなくこっちに放り出されたと聞いていたから、俺は驚かなかった。戻りたいと思ったあいつは東奔西走して、……ああ、そうか。緊急脱出プログラムってのは、向こうの長門が用意した、世界を元に戻すための仕掛けのことだろう。俺に届いてたメールと一緒だ。
 ジョン・スミスがエンターキーを押したところで夢は途切れ、涼宮と古泉はまったく同じ出来事を夢に見たらしいことをお互いの話から知った。そして、古泉は困惑し、涼宮は欣喜雀躍した。
「だってさ、わくわくするじゃない。ただの夢とは思えなかったもの!」
 説明しつつ、そんなことを涼宮は言った。目を輝かせながら。こいつも向こうのハルヒと同じか。面白いもの、不思議なものには目がないんだな。そして、無駄に行動力のあるこいつが古泉を引っ張って、ジョン・スミスを探しに北高までやってきて、校門前で張っていたというわけか。
 緩やかでかすかなBGMが、店の中を流れる。
 翻って現在。涼宮も古泉も難しい顔をしていた。俺は溜息をつき、今しがた終えた説明を繰り返す。
「……もう一度言うが、俺はただ巻き込まれただけの一般人だよ。もともとはあっちの長門の仕業だし。お前らが見ていた夢の三日間は、長門が入れ替えのつじつま合わせのために設定をいじくってた時のものだ。ジョンが元の世界を選んで帰ったから、それが全部元通りになって12月18日から再スタート、」
「……ふざけないでよ!」
 ダン、とテーブルが鳴る。涼宮はテーブルに拳を叩きつけながら、立ち上がっていた。うつむいているが、さながら仁王像のような形相をしている。
「なによそれ!あたしは何かが始まると思ってわくわくしてたのよ。それが何?向こうの世界のドタバタにただ巻き込まれただけだって言うの?しかもこれっきりで終わりなの?唯一の手がかりのあんたすら、巻き込まれただけ?不思議なんかもうどこにもないっていうの?……ふざけんなっ!」
 ほとんど一息に言い切り、涼宮は床を蹴って走り出した。
「……涼宮さんっ!」
 引き留めようとした古泉の手が、空を切る。涼宮は、そのまま店の中を駆け抜け、ドアを蹴破る勢いで外に飛び出していってしまった。周囲の目がちょっと痛い。
「……追いかけなくていいのか?」
 固まっている古泉に、声を掛ける。古泉は、複雑そうな顔で、ゆっくりと俺に向き直った。
「……本当なら、追いかけるべきなんでしょうが……僕が何を言っても、涼宮さんの慰めにはならないでしょう」
 すっと目を伏せる。やめろ。憂い顔が様になりすぎて、思い出す。こいつは古泉であって古泉じゃない。
「それに僕も、ある意味で涼宮さんと同じ気持ちです」
 伏し目がちに、テーブルの上で冷めかけたコーヒーを見つめる目の、睫毛が長い。
 どういう意味だよ。
「羨ましかったんです。あなたが……もう一人のあなたが」
 古泉は伏せていた目を上げた。そこには、存外強い光が灯っている。
「だって、非日常を垣間見せておきながら、あなたは、もう一人のあなたは僕たちを置き去りに行ってしまった。涼宮さんの関心を奪っておいて去っていくなんて、僕たちを連れて行けないのなら、あんなものを見せないでほしかった」
 俺は古泉の目に灯る火の名前を、たぶん知っていた。
「……あなたに言っても詮のない話ですね。すみません、八つ当たりでした」
 そう言ってまた目を伏せ、愁眉を寄せる。こいつの目に灯っていたのは、嫉妬と、恨みと、自分の力ではどうしようもない事象に対する怒り。
 ……ああ、こいつも同じなんだ。あるいは、涼宮も。
 選びたかった。選ばれたかった。けど、選ぶことは許されなかったし、選ばれもしなかった。
 俺と同じで、俺がこっちの長門にしたのと同じ八つ当たりを、俺はこいつらにされている。因果応報。アホみたいだ。
 俺は、しばらく考えて、口を開いた。
「……たとえば、だ。お前は今すぐ店を飛び出して涼宮を追っかけて、適当に二人でジョンのことを罵倒し合ってすっきりして、そんで次の日には何もかも忘れちまう、なんていう選択肢も選べる」
 古泉がはっとして顔を上げる。そして、また顔を伏せた。
「魅力的な選択肢です。……でも、今の僕にはそれは選べそうにありません」
「たとえばだ。たとえば、本当に全部を忘れられるとしても?」
 俺の言葉に、古泉はいくらか厳しい顔をして、また顔を上げた。
「あなたはまだ、何か隠しているんですか?」
 ……さあね。
「いいえ、そうだとしても、いいです。知ってしまったものをなかったことになんて……できないし、したくない」
「そうか」
 まあ、そうだよな。……俺もそうだ。記憶は己にとって過去そのものだ。もうこれ以上、過去を勝手にいじられたくない。過去は自分のものだし、取り替えたくなんか、ない。そうだろ?
 俺は、コートの携帯を取りだして開いた。そしてボタンをひとつ押す。メールの受信ボックスが展開された。
「古泉お前、携帯持ってる?」
 話しかけながら、受信ボックスの先頭にあるメールを表示する。『緊急消去プログラム』。あっちの長門から来たメールだ。
 メニューを呼び出し、削除を選ぶ。本当に削除するかどうかを確認するダイアログが出た。
 『削除しますか?』
 はい or いいえ。
 ――Ready?
 俺たちは選ばれなかったし選べなかった。だが、あっちの世界とこっちの世界を天秤に掛けるような、そんな大それた選択は許されてなくても、今いる世界の中でどうするか決めるくらいは、出来るはずじゃないのか?
「……一応、持っていますが……」
 顔を上げた古泉が怪訝な顔で携帯をカバンから取り出すのを携帯の画面の向こうに見ながら、俺は『はい』を選んだ。『メールを1件削除しました』のダイアログが消えると、受信ボックスには、もはやそんなメールなど最初からなかったも同然だった。
 俺はそのままメール機能を閉じて、今度は自局番号を呼び出す。
「それ、赤外線通信はできんの?」
「できます、が……」
 鈍い奴だな。それとも、分かってて避けようとしてるんだろうか。だがそんなことは知らんね。
「俺は、――――っていうんだ」
 文脈を無視して、自分の名前を告げる。こいつらの話から察するに、向こうの俺はジョン・スミスとかいうふざけた偽名以外名乗ってないはずだ。案の定、古泉は驚いた顔をした。見開いた目が、ずいぶん幼く見える。大人びた雰囲気の奴だと思ってたが、そうしてると俺と同い年だってのも納得できんでもないな。
 古泉の目を見据えて、俺は言葉をついだ。
「古泉。もう一つ選択肢を提示してやる。――とりあえず、俺たちは初めて会ったんだ。自己紹介でもして携帯の番号とアドレスぐらい交換しておこうぜ」
 赤外線通信できるんなら、受信できるようにしてポートこっちに向けろ。俺の携帯の番号とアドレスをまず送るから。
 俺の言葉をまるで耳慣れない外国語を聞くように戸惑ったままで聞いていた奴は、しばしの間視線を落ち着きなくうろうろとさまよわせた。
 ……この選択は、傷を広げるだけかもしれない。この古泉は、俺が最初に出会った古泉とは違う。そのことでまた傷つくかもしれんし古泉を傷つけるかもしれん。それでも、今はこれが選びたかった。
 ――『運命はかく扉を叩く』と言ったのは、ベートーベンだったか。確かに、運命なんてもんは、ある日突然に俺たちの扉を叩くものなのかもしれない。だが、訪ねてきた運命に翻弄されっぱなしというのは癪にさわる話だと思わないか?
 選ばれなかったことに腹立たしさとその他諸々は感じているが、だからといっていつまでもそれを嘆いていじけたままってのも、それはそれで腹立たしい。
 視線をさまよわせていた古泉は、やがて腹を決めたように俺に視線を向けると、携帯を操作し、俺の方に差し出した。
「古泉一樹です。……よろしく」
 おう。よろしく。俺も赤外線ポートを古泉の携帯に向け、送信する。
 運命が叩くに任せてやるものか。自分の扉くらい、自分で開けてやるさ。今は後の祭りのその後だが、悔しがったり羨ましがったりする以外にも、選択肢はここにある。
 古泉の携帯が、受信完了を告げた。それが、新しい扉を開く合図だった。



(2010.03.14)