後の祭り、祭りの後
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地球をアイスピックでつついたら、いい感じにカチ割れるんじゃないかと思うほど寒かった。
シベリア寒気団はそう律儀に毎年毎年来ないで、たまには休業すべきだね。オリンピックみたいに四年に一度とかそのレベルの頻度で勘弁してほしい。
そんなことを思いつつ、寒さに身を震わせながら登校した12月18日。谷口は健康そのものでクリスマスのデートの予定に浮かれていたし、ハルヒは俺の後ろの席でご機嫌だった。
放課後、1年9組の前を経由して渡り廊下を歩き、部室棟に向かった俺が部室に入れば長門と朝比奈さんがいて、すぐにハルヒと古泉もやってくる。
……これは、夢だ。あっちの世界にいた時のことを、また夢で思い出している。
古泉と部室で初めて会った気になったのは当たり前だった。長門は隣のクラスだし、朝比奈さんは校内では有名だったから顔を知っていた。ハルヒもあの日が初対面だったが、朝から顔を合わせていた。だが古泉だけは、あの時に初めて顔を合わせたんだ。あっちの俺の身代わりとして記憶のつじつま合わせをされた俺が、気がつかなかっただけで。
「きたる25日、あたしんちの町内会主催の子供会クリスマスパーティーがあります。そこで、よ!あたしたちが乗り込んで盛り上げちゃおうと計画しております!」
ホワイトボードの前に立ってえへんと咳払いをひとつしたハルヒが、厳かに言う。おいおい、お前は地元だからいいがな、俺たちゃ部外者だぜ。無断で乗り込んだら場合によっちゃ通報されかねん。
「もちろん無断じゃないわよ。あたしのうちのお隣が子供会の役員さんでさ、話したらぜひって言ってたから」
……俺たちの25日の予定の確認を取る前にその役員さんとやらに話を通したことには、もうこの際突っ込むまい。で、どういう段取りでいくつもりなんだ?
「よっくぞ聞いてくれました!それよ!子供達にプレゼント配る係やるつもりなんだけどさ、サンタはみくるちゃんで決まりとして、あとはそりを引くトナカイくらいほしいじゃない」
目を輝かせるハルヒ。そうだ、くじ引きで俺がトナカイ役をゲットしたんだっけな。ありがたくないことに。
「おっ待たせー!さあ、行きましょ。……キョン、あんたどうしたの?鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して」
古泉の前で失態を見せた直後に女子三人が部室の中から現れたおかげで、俺は完全に思考停止した。
そこに、古泉の声が聞こえる。
「話に夢中になりすぎたようですね。僕も驚いてしまいました」
「話に夢中?何のこと?」
振り返ったハルヒに、古泉は肩をすくめてウインクなどしてみせる。
「男同士の話……と言いたいところですが、違いますよ。彼もなかなか熱心なもので、よりトナカイらしさを演出するにはどうすべきかについて議論を交わしていました」
おいこら古泉、それはフォローか。フォローなのか。トナカイらしさってなんだよ。ハルヒに突っ込んで聞かれたらどうすんだ。だがこういうときハルヒって奴は変に鷹揚なのだ。俺が言ったら突っ込みがきそうなセリフも、古泉が言うとあっと言う間に検定パスなのである。理不尽を感じるぜ。
「へえー、あんたなかなかどうして感心ね。こっちも衣装の作りがいがあるってもんだわ!じゃ、ちゃっちゃと買い物済ませちゃいましょ!」
みんなでトナカイの衣装のための材料を買い出しに行くことになって……そしてあれが起きた。
全員で部室を出た俺たちは、ひとかたまりになって廊下を歩いた。
俺はたいてい古泉と並んで女子の後をついて行くのが通例だが、さっきのできごとのせいで気まずかったので古泉とも並ばず、最後尾をのろのろと歩く。
古泉にたとえどんな意味でも「好きだ」と言われて動揺した。取り繕う機会はたぶんもうない。古泉のことだから、俺が何も言わなきゃ何も聞いてこないだろう。蒸し返したらかえって藪蛇だし、かといってこのまま何事もなかったような顔で接するのは無理な気がする。古泉ならこういう時、いくらでも何事もなかった顔が出来そうだがな。
そもそも古泉にとっちゃ気に留めるほどのことじゃなかったかもしれん。俺が勝手に慌てふためいて空回りしてるだけだ。俺に先だって階段を下りていく古泉の頭を見つめる。が、奴はもちろん気づきもしない。なんで今日の俺はこんなに、奴を気にして動揺してるんだ。
俺はぐるぐる考え続けた。だからその瞬間まで気づかなかった。
俺の背後から伸びてきた手が、俺の背中を突き飛ばすのを。
「う、わっ!」
突然の衝撃につんのめる。そこは階段の途中で、視界が回る。俺を振り向いて驚いた顔、顔。一瞬の浮遊感。眼前に迫る階段。
床に激突する寸前で、俺の視界は暗転した。
「……っ!」
ぶつかる。そう思ってとっさに出した手は、宙を掻いた。
「…………は?」
思わず己の手を見つめる。そこから辿っていって、自分の体を、見下ろす。
俺は階段で転んだはずじゃなかったか。床に激突しそうだったのに、なんで立っている。
……どこだ、ここは。
気がつくと、そこは部室棟の階段ではなかった。真っ暗だ。なにもない。自分が足をつけているという感覚がなければ、地面がどこにあるかさえ分からない漆黒の空間。しかも、こんなに暗いのに自分の体ははっきりと見える。光源はどこだ。
呆然と見下ろしていた俺が顔を上げると、いつの間にそこにいたのやら。少女が一人、佇んでいた。
小柄で細身、髪はショートカット。北高のセーラー服を着た、誰だこいつ、待て俺はこいつを知ってるはずじゃないか、顔は知ってる隣の六組の女子だろ、だからそうじゃなくて。
「私は……長門有希」
そうだ、それがこいつの名前だ。この空間と同じ、吸い込まれそうな漆黒の瞳で、長門は俺を見ている。
「私はあなたに謝らなければならない」
謝るって、何を……
「思い出して。あなたは誰」
俺?俺は……俺は一年五組で、あだ名はキョンで、SOS団の雑用係で……SOS団ってなんだよ。俺の後ろの席の涼宮ハルヒが設立した、宇宙人未来人超能力者が集まるトンデモ団体に決まってんだろ。
涼宮ハルヒって誰だよ。俺のクラスメートで、なにやら世界を思い通りに作り替えちまうような変態的能力の持ち主で、長門曰く進化の可能性、朝比奈さん曰く時空の歪みのおおもと、古泉曰く神様かもしれない、そんな我らが団長様に決まってんだろ。
長門って誰だよ。目の前にいるだろ。隣のクラスの女子だよ。違うだろ、こいつは宇宙人製の有機アンドロイドで。
朝比奈さんって誰だよ。地上に舞い降りた天使にして北高男子のアイドル的存在だろうが。忘れたか。それだけじゃないだろ、この人は未来人で。
古泉って誰だよ。古泉は……
……俺は今日一日何をしてた?見も知らぬ団体の中で、ろくに知らない、あるいは初めて会ったばかりの連中と、当たり前のように放課後を過ごしてた。そのことを自覚もしないで。あれは何だ?あいつらは何だったんだ?
「思い出した?」
思い出した。俺は、世の中に宇宙人未来人超能力者、正義のヒーローに悪の組織、そんなものが転がっていてくれないものか、そう願いながらもそんなもんはねえんだと悟った。高校に入ってからは特に何かに打ち込むでもなく、のんべんだらりと過ごしちまった。そういう俺だ。
なあ長門、説明してくれ。俺はなんで一日だけとはいえ、あんな団体に所属できたんだ。何が何だか分からない。
「私があなたに自覚させないようにしていた。齟齬を抑えるための処置」
齟齬?何の齟齬だよ。
「私が属する時空連続体と、あなたが属する時空連続体は異なる。それらは、いわゆるパラレルワールドの関係。非常に近似ではあるが、細部において異なる点は多い。その状態のまま入れ替えれば齟齬の発生が予測できたので、あなたの意識を操作した」
お前は何を言ってるんだ。さっぱり分からない。
「交換」
は?
「私と、あなたの世界の長門有希。彼女は周辺環境を変化させることを手段に己の変革を望んだ。それが私の求める条件と合致したため、私とあなたの世界の長門有希は合意の上、互いの存在を交換。私はその際に、条件をつけた」
要するに、パラレルワールドに存在するお前達が入れ替わってた、のか?条件って?
「そう。……条件は、あなたも入れ替えに組み込むこと。そして、私の世界のあなたに、交換を確定させるかどうかの選択を委ねる」
俺も入れ替えられた?俺は今日一日入れ替えられた先で過ごしてたのか。なんでそんなことをした。
「すべては私の責任。私のメモリに蓄積したエラーの集合がトリガーとなり、バグが暴走した。私自身の力ではエラーを修正しきれなかったせいで、あなたたちを巻き込んだ。ごめんなさい」
ごめんなさいってな、謝って済むなら警察いらねえぞ。勝手に世界入れ替えたとか意識を操作したとかシャレにならん。しかも何か?俺はひょっとして巻き込まれ損か?なんだよもう一人の俺に選択を委ねるって。長門は、それしか知らないようにごめんなさい、と繰り返す。
「彼は……私の世界のあなたは、すべてを元通りに戻すことを選んだ。見て」
長門が指し示す方を見ると、まるでそこにスクリーンでもあったかのように、ここではない場所の映像が映し出されている。暗い、夜?だがこれは見覚えがある。北高の前の道じゃねえか。そこには、セーラー服に学校指定のカーディガンだけの姿で眼鏡を掛けた長門と、これまた制服にマフラーを巻いただけの寒そうな格好で長門と対峙する、俺。
何かをしゃべってるが、内容までは分からない。吐く息が白く、流れる。
そこに、俺の……もう一人の俺の思考が流れ込んでくる。しゃべっている内容とはたぶん違う。
――バグだと?エラーだ?これは長門の望みだ。長門はこういう普通の世界を望んだのだ。
――なんでまた俺だけを元のままにしておいたのか?
――答えは単純、俺に選択権を委ねたんだ。変えた世界がいいか、元の世界がいいか、俺に選べというシナリオだ。
ふざけんなもう一人の俺。ふざけんなもう一人の長門。あっちの世界とこっちの世界を比較して、どっちがいいかひょいと選べってか。選ぶ側は良くてもなあ、選ばれるのをただ見てる側は、……どうすんだよ。見せつけられたら、どうすりゃいいんだよ。
もう一人の俺が自問自答する。
――俺はどう考えていたんだ?ハルヒの巻き起こす色んな出来事、非常識な事件の数々に、俺はどう思っていた?
――そんな非日常な学園生活を、お前は楽しいと思わなかったのか?
馬鹿野郎。そんなもん自問自答するまでもねえだろうが。俺は楽しかった。たった一日のうちのほんの数時間、過ごしただけでも楽しかった。ずっとあそこにいてもいいと思ったくらいだった。
胸の中に、炎が渦巻き始める。妬みと嫉みと羨みと恨みと怒りと、全部でいくつあるんだか分からない感情全部を混ぜた、黒々とした熱さで。
いつの間にか、俺は夕暮れの教室の中にいた。足に、靴下ごしの冷たく固い天板の感触。
目の前の席にはもう一人の俺がいて、まだ自問自答してやがる。
ハルヒの賑やかさを、朝比奈さんの可憐さを、長門の静謐さを、そして古泉の甘い涼やかさを思い出す。……俺はたぶん、出会ったばかりの古泉に、そしてSOS団そのものに、惚れたのだ。一目惚れした相手を、俺は選ぶ権利がない。
激昂した俺は、足を振り上げた。そのまま、前の席の俺に向かって振り下ろす。だん、と、派手な音がしたが、知るか。
「俺は、迷惑な神様モドキなハルヒと、ハルヒの起こす悪夢的な出来事を楽しいと思ってたんじゃないのか?」
たった一日過ごしただけの俺でさえ楽しいと思ったんだ。この何ヶ月かずっと一緒に過ごしてきたお前なら、なおさらのはずだろ?
「言えよ」
言っちまえ。お前は俺の欲しいものをかっさらっていくんだろ?ぐりぐりと、力を入れて踏みしめる。とっとと選んで、俺を諦めさせやがれ。もしくは俺と代われ。
お前は、お前が。お前が俺だったらよかったのに。
踏みしめていた足の下に、ぐっ、っと押し返す感触。見ると、奴は机に手をついて、起き上がろうとしている。
――当たり前だ。
俺の足の下から、低い声が、言い返す。それは俺にとっては呪詛のように聞こえた。足を押し返す力が、ますます強くなる。俺はムキになって体重を掛けまくったが、そんなのが無駄なことは、分かっていた。
どんなに力を込めても、ますます、押し返される。机についた、奴の手がぶるぶると震え、そして、顔面を対面していた机から一気に引きはがす。完全に押し返された俺はバランスを崩して、後ろにこけそうに、なって。
――楽しかったに決まってるじゃねえか。分かりきったことを訊いてくるな!
奴のその叫びを最後に、仰向けに倒れていく俺の視界は、真っ白に染まった。
***
「……だ、大丈、夫?」
遠慮がちな声が耳に飛び込んできて、俺は我に返る。
そこは部室棟の階段の途中で、俺は階段に尻餅をつく格好でへたり込んでいた。そうだ、さっき階段を踏み外して……。
見ると、眼鏡をかけた長門が隣にしゃがみ、気遣わしげに俺をのぞき込んでいる。
「長門……」
そう、今のは夢だ。過去のことを夢に見ていただけだ。リセットをかけられて、なくなったはずの記憶を。
「声がしたから、心配になって……どこか、傷めてない?」
さっき夢の中で聞いた抑揚に乏しい声じゃない、遠慮がちだが心配そうな長門の言葉。俺は、鼻がツンとして、目が潤んでくるのを感じた。とっさに顔を伏せて、ああ、ダメだ。この長門に言うべきじゃない。これはこいつ宛ての言葉じゃない。それなのに俺の口を突いて泣き言が飛び出す。
「酷えよ長門……」
隣で、長門が息を呑んだのが分かる。
酷えよ、もう一人の長門。なんでこんなことしたんだよ。どうしてもう一人の俺には選択権を与えて、俺には選択権をくれなかった?もう二度と行けないんだぞ、あのSOS団がいる文芸部室には。もう二度と会えないんだぞ、あの古泉には。あんなに魅力的なものを垣間見せておいて俺には選び取る権利はありませんなんてそんな、目の前で猫缶開けてさんざん匂いだけでじらしておいて、猫に餌やらないようなもんじゃねえか。ちくしょう。くれないなら最初から見せるなよ。
せめて絶対思い出せないようにしてくれてたら良かったのに。そしたらこんな思いをしなくて済んだのに。全部ぜんぶ、後の祭りだ。
うつむいた視界がぼやける。もう一人の俺を踏んづけていたときはさんざんに燃えさかっていた感情の炎は、今や燃料がなくなったかのように見る影もない。焦がすだけ焦がされた俺の胸の内は、火傷でじくじく痛むだけだ。
それがあまりに痛くて、目の端からぽろりと雫がひとつこぼれるのを、俺は止められなかった。
(2010.03.14)