後の祭り、祭りの後

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 教室は、夕暮れに照らされていた。
 燃えるようなオレンジと黒々と落ちる影が作りだすコントラスト。場のすべてを染め上げる燃えるような色も、影の黒さも、俺の心情に似つかわしい。その時の俺の胸の内も、燃えていた。黒々とした熱さで。
 俺が靴下越しの右足に感じるのは、机の天板の固さと冷たさ。俺は教室の机の上に、上履きだけを脱いだ状態で立っていた。
 そして靴下越しの左足に感じるのは、天板の冷たさや平たさと打って変わった温かさと丸み。少しばかりざらざらちくちくとした、短い髪の感触。俺は教室の机の上に立ちながら、人の頭を踏んでいた。
 俺の前の席に、突っ伏している人間がいる。俺と同じ北高の制服を着た、男。俺はそいつの頭をありったけの力を込めて踏む。
 俺の胸に燃えていたのは怒りだった。なぜ怒るのかといえば、恨んでいたからだ。なぜ恨むのかといえば、目の前のこの男が俺がどんなに欲しても手に入れられないものを手に入れられるからだ。
 力を込めて、踏む。踏みにじる。胸に燃える炎は、ぐるぐると渦巻いて俺の中を焦がす。
 炎が渦巻くのは、風が吹き荒れているからだ。どんなに俺が怒ろうと、恨もうと、踏みつけようと、何をしようと、選べないのだ。手に入れられないのだ。見ているしかないのだ。どうしようもない事実だった。俺は事実に打ちのめされていた。
 そして目の前の男が、きっと俺の欲しいものをかっさらう選択をすることも、分かっていた。半分の諦めと、もう半分の、なお諦めきれない気持ち。それが風になって吹きすさび、炎を煽るのだ。
 お前は、お前が、お前なんか。憎い。羨ましい。欲しい。腹立たしい。よこせ。うだうだすんな。代われ。さっさと選べ。諦めさせてくれ。絵の具を混色するほど黒に近づくように、俺自身の中であらゆる気持ちが綯い交ぜになって、醜く濁った暗さを増していく。炎をよけいに渦巻かせる。
 奴が、俺の足の下で、身じろぐ。頭を動かし、こちらを見やるその顔は――。

***

 ジリリリリリリリリリ。
 耳に飛び込んできた音に、俺は目をばちっと音がしそうな勢いで開いた。
 朝の静寂の中にけたたましく響く目覚ましの音、外で人が動き始めた気配。見慣れた天井。慣れた寝間着のスウェットと布団の感触。そして布団の中に感じる、猫――シャミセンの温かさと息づかい。
 なんだ、今のは。なんなんだ今のは。
 ……面白い夢を見て、起きたばかりの頃はそれを覚えていてすげえと思っているのに、布団から這い出して顔を洗って歯を磨いて飯食って、としているうちに輪郭がだんだんおぼろげになり、着替えて玄関を出る頃には『なんだか面白い夢だった』という輪郭だけを覚えている、なんて経験はないだろうか。俺はある。
 そんな経験とよく似ているのだが、その夢の輪郭だけが違った。圧倒的というか、恐ろしいまでにというか、なんというか。何が圧倒的で何が恐ろしいまでだったのかは、目を開いた瞬間、どこかへ行ってしまった。だがとにかく面白い夢ではなかったはずだ。
 思い出そうにも……せいぜい、燃えるようなオレンジ色と、その色に似た熱さを感じる夢だった、ような。自分で言っててわけが分からん。
「キョンくーん、あっさだよー。起っきようねー。シャーミもー」
 目覚ましがけたたましく鳴り響く中、呆然と夢の輪郭を追っていた俺の耳に、母親からの刺客たる妹の、妙な節回しの声が届く。妹はいつも通り俺から布団をはぎ取り、それとともにベッドから転がり落ちたシャミセンを回収して、部屋を出て行った。
 一方の俺は、寒さに身を丸めつつ、もう一度布団にくるまろうか起きようか考え、未だ鳴り続ける目覚ましのうるささと階下から聞こえてきた母親の怒声に、仕方なく起きる方を選択する。
 目覚ましを止め、冷たい床に辟易しながら階段を下り、やっぱり寒い洗面所でおざなりに顔を洗って歯を磨く。
 大慌てで寒さから逃れて台所に行くと、両親と妹はもう揃っていて飯を食っている。漂う味噌汁の香りと、あたたかさ。適当に挨拶して、俺も飯を食う。いつものBGMと化したニュースがテレビから流れてくる。
 飯を食ったらまず父親が一番初めに玄関を出て行く。ご出勤だ。今日もご苦労なことである。
 それを横目に俺は二階に戻り、寒さと時計に急かされながらようやっと制服に着替え始めるのだ。
 朝飯を食って満足したらしいシャミセンが、俺について部屋にやってきて、ベッドの上で二度寝を始める。ちくしょう、のんきなもんだ。
 シャミを恨みがましく眺めながら、俺は仕方なしに着替えを続行する。学校指定のワイシャツ、ネクタイ、セーター、ブレザーそしてズボン。どいつもこいつも昨日脱ぎ散らかして床に放ったままだ。おかげで母親にはせめてハンガーに掛けとけといつも注意される。
 そしてコート。最後にマフラーを巻き、これまた学校指定のカバンを背負って、装備完了。
 ふと、携帯を充電しっぱなしで机に置いていたのに気がつき、手に取る。サイドボタンを押すと、イルミネーションが灯り、携帯のサブウインドウに現在時刻が浮かび上がった。
 そろそろ家を出ないとやばそうな時間。日付は、12月18日。そして着信はなし。
 階下に降りると、妹はすでに出たようだった。玄関を出る俺の背中に、母親の送り出す声が聞こえる。
 外に出るのと同時に、思わず身をすくめた。吐く息が白い。地球をアイスピックでつついたら、いい感じにカチ割れるんじゃないかと思うくらいに寒かった。


 あと一週間もしないうちに終業式。明日には短縮授業に切り替わる。この寒さの中あのハイキングコースのような坂をえんえん登って学校に通うのはもはや億劫なルーチンワークでしかない。
 特に俺のように、部活に打ち込むわけでもなく彼女を作って青春しているわけでもなく、のんべんだらりと過ごしているだけの奴にとってはな。あー、早く冬休みになんねえかな。
 そんなことを考えながらだらだら坂を登っていると、見覚えのある丸まった背中が見えた。
「よう、谷口」
 近づいて声を掛けると、そいつは振り向く。
「おー、キョンか……」
 白いマスクをかけた谷口が、無気力に挨拶を返してきた。ここしばらく調子悪そうだったが、いよいよ本格的に風邪っぽいな。ていうか学校来て大丈夫なのかよ。
「俺としては休みたかったんだがなあ、うちの親父が風邪は気力で治せっつー方針でよ……」
 ごほっ、と力のない咳がひとつ。なんとまあスパルタンな教育方針の親もいたもんである。風邪菌を持ち込まれてばらまかれたらこっちも迷惑なんだがな。
「とりあえず学校着いたら保健室行くわ……この体調で登山とかマジでねーよ……」
 そう言いながらけほけほっ、とまた咳をして、谷口は背中をますます丸めた。そうか。まあ死なない程度にがんばれ。
 不意に、目の奥がくわんと揺れるような感覚がした。
 それは目眩に似ていて、平衡感覚を一瞬だけ失った俺は、たたらを踏みそうになる。とっさに踏みとどまったころには、その得体の知れない感覚は去っていた。なんだ、今のは。
 隣を見れば、背中を丸める風邪引き谷口がいる。
「……なあ、谷口」
「んあ?」
「お前、……クリスマスの予定は、決まってんだっけ?」
 なぜ俺はこんなことを聞いてるんだ。どうせクリスマスの予定を聞くならかわいい女子にでも聞く方がいいだろうに。なぜか、確認せずにはいられなかった。だが確認って何をだ。
 話しかけられるのもしんどいのか、谷口は投げやりな口調で答える。
「……クリスマスぅ?予定なんかあるわけねえだろ。親がなんか飾り付けしたり料理したり、毎年色々やってるけどな。高校生にもなってそれに付き合うのもよぉ……」
 そうかい、俺も似たようなもんだよ。うちは小学生の妹がいるからそいつに合わせてこれから何日間かは先行してクリスマス仕様だ。しかも飾り付けは発令母親・実行俺ときてる。
「そんでクリスマスには家族でケーキ囲みますってか?っかー、お互い情けねえもんだな。どうせだったら彼女とか作ってデートしてえよちくしょー」
 嘆く風邪引き谷口。なぜか言葉に出来ない感覚がわき上がる。なんだろう、腹の底にかすかにわだかまる、違和感。
「……おい、キョン。どうした?」
 気がつくと、谷口が振り返ってこちらを見ている。いつの間にか自分が立ち止まっていたことにも気づかなかった。
「……いや、なんでも、ない」
「なんだよボーッとして……ひょっとしてお前も風邪か……?」
 我に返って歩き出すと、谷口がぼやくように言った。ごほっ、と、また咳をひとつ。
 風邪か。……案外、そうかもしれない。これだけ寒いし、先週の末ぐらいからクラスでも流行ってるんだ、そろそろ流行に無関心を決め込んでる俺のところにも飛び火してきたっておかしくない。むしろ風邪を引いたらこのたるい消化日程をいくらか飛ばせそうなのはありがたいくらいだな。俺の家は谷口んちと違ってさほどスパルタ主義でもないから休むべき体調の時には休ませてもらえるだろうし。
 自分を納得させてうんうんと頷いていると、谷口が「お前本格的に大丈夫か」という目で見てきた。現役風邪引きには言われたくねえ。
 のろのろと坂を登り切り、予鈴ギリギリに(こんな寒い日にきびきび歩くなんて無理な話だぜ)教室に入った俺は、先に来ていた国木田などと挨拶を交わしながら、自分の席に鞄をおろす。
 窓際の、最後尾。
 この間の席替えでキープした我ながら幸運すぎるポジション……なのだが。
 マフラーを外し、コートを脱ぎながら、俺は何度も後ろを振り返った。なぜか、背後が気になる。
「はい、おはようさん。……ほらー、席につけー」
 担任の声が耳に飛び込んでくる。席に着き、代わり映えのしない型どおりのホームルームを聞き流し、やがて教科担任が入ってきて授業が始まる。
 手だけは教科書とノートを出して授業に備えながら、俺はもう一度、何もないはずの背後を振り返った。


 昼休み。
 俺は国木田と二人で飯を食っていた。いつも俺たちと一緒に食ってる谷口は、宣言通り保健室に行ったきりだ。
 俺は自分の席で、国木田はたまたま空いた俺の前の席を借りて、それぞれに弁当を広げて食い始めた……が、ふいに、目眩を感じた。正確には、目眩に似た、目の奥のさらに奥、頭の中を揺すられるような、何か。
 今朝、谷口の姿を見た時や、自分の席の後ろを見た時にも感じたのと同じだ。俺の中のどこかが、違和感を訴えているような。
「キョン。どうしたの?なんだかぼーっとして。そういえば今朝もぼーっとしてた気がするしさ」
 卵焼きをちまちまと細切れに刻んでいた国木田が、顔を上げて首をかしげる。
「いや……」
 そんなに分かるほどぼーっとしてただろうか。……してたかもな。授業がかったるくてぼーっとしてるのはわりと俺のデフォルトだし。
「デフォルトのぼーっとなら僕もわざわざ突っ込まないけどさ」
 国木田は細切れになった卵焼きの一切れを口に運びながら、言った。
「ちょっとだけ、ぼーっと加減がひどい気がするよ。とうとうキョンも風邪もらった?」
 確かに、原因不明の違和感に多少煩わされてはいた。そのせいでぼーっと加減はひどいかもしれん。だが、正直に言ったらそれこそ保健室行きを勧められそうではないか。かわいそうな奴を見る目のオプション付きで。いや、休める口実が出来る分にはいいのか?だが俺もちょっとは世間体というものを気にするのだ。
「さあな。そうなら冬休みまでのかったるいあと何日間、休んで過ごせて万々歳なんだが」
「投げやりだなあ」
 呆れる国木田を尻目に、鶏の唐揚げを口に放り込む。ほっとけ。
「……なあ、国木田」
「なに?」
「この列って……最初からこうだったよな?」
「ん?こうって?」
「いやだから、俺が一番後ろだよな。俺の後ろに、もう1人いたとか、そんなことはなかったよな?」
 なぜ俺はこんなことを聞いているんだろう。そんなことがあるわけないのは、俺自身分かっているはずなのに。
 国木田も不審さマックスで首をかしげながら、飯を咀嚼している。飯を飲み込み口を開いた国木田の口から出てきたのは、やはり予想通りの言葉だった。
「……この前の席替えでその席になってから、キョンがずっと一番後ろじゃないか。本当に、大丈夫かい?」


 その後、適当にだべるうちに昼休みは過ぎ、その日の午後一番は教室を移動しての授業だった。
 昼休みの後の授業というのはどうもかったるくていけない。全ての授業についてかったるいかったるいと言い続けている俺ではあるが、飯食って重い腹抱えた長い休み時間のあとに移動教室、というのは特に腰が重くなる。
 それでも優等生な国木田に促されて準備をし、一緒に教室を出た俺は、混み合った廊下でふと隣のクラスから出てきた女子と視線がかち合った。
 小柄で細身、髪はショートカット。眼鏡をかけたその女子の顔を、俺は一応知っていた。逆に言うと顔ぐらいしか知らなかった。
 うちの五組と隣の六組は、体育などで合同授業があるとワンセットになる。その時に何度か見かけていたので、六組の女子なんだな、と分かる程度だ。あとは、大人しそうな感じで、誰かとつるんでるところも見たことがない、とか。そのくらいしか。……一瞬、なぜか図書館を連想したが、あの女子と図書館にまつわるエピソードなんて、ない。というかそもそも図書館なんてしばらく寄りついてもいないぜ。
 その女子は、特にリアクションもなく、ただ突っ立ってこちらに視線をよこしてくる。その顔は、戸惑っているようでもあり、怯えるようでもある。訳が分からなくて俺が首を傾げると……その女子はふっと安堵したような、少しだけ残念そうな表情をして、顔を伏せる。そしてそのまますたすたと歩き出し、足早に俺の脇を通り過ぎて行ってしまった。
 ……なんなんだ今のは。
「今のなに?……キョン、あの子と何かあったの?」
 一部始終を見ていた国木田も驚いたようだ。まさか。そもそも俺はあの子の名前すら知らないし話したこともないぞ。そして俺には名前も知らない女子に見つめられる覚えがない。そこまで素行が良くもなければ悪くもないはずだし、見ず知らずの女子に注目されるのが当たり前な見た目ならもっとバラ色の高校生活を送ってるさ。……言っててちょっと空しいが。
 ちなみに国木田よ、俺の顔に何かついてるか?思わず注目せずにはいられないような落書きなり、人面瘡のたぐいなり。
「ううん。ごく普通に目が2つと鼻と口が1つずつ付いてるだけだね」
 そうか。
「じゃあ、なんだったんだ……?」
 疑問の答えは出ない。なにしろ身に覚えがない、……はずだ。
 ふと、肌寒さを覚えて、二の腕をさすった。まあ当たり前だな。今日は酷く冷えるし、この学校ときたら、ろくな空調設備もありゃしねえ。最近風邪が流行ってる一因にはこういう環境の悪さもあると思うね。県立校のこの冷遇っぷりはどうにかならんもんかねまったく。
 ……そうやってぼやいてみてもごまかしきれない、体感的なものとは別の寒さを訴える感覚があった。それは、言ってみれば、疎外感と寂寥感。いつも通りがかる場所にあった店がいつの間にか引っ越して別の店が入っているのを見かけた時のような、つまりよく見知っていたはずの場所がいつの間にか様変わりしてしまった時のような。だがなぜ今そんなものを感じる?
「キョン、とりあえず予鈴も鳴ったし、行こうよ」
 国木田の言う通り、廊下に予鈴が鳴り響いている。それもどこか遠くに聞こえた。
 仕方なく移動のために歩き出す。廊下を進んで、ふと、振り仰ぐ。そこには、一年八組のプレートがあった。一年生の教室はそこで途切れ、廊下は突き当たり。横に、階段がある。
 俺は階段と八組のプレートをしばし見比べた。……うちの学年は、八クラスだ。だから、八組で終わっているのは当たり前のはずだ。
「キョン。……大丈夫?本当に風邪じゃないの?」
 移動先の教室は別の階だ。先に階段に足をかけていた国木田が、振り返って俺を呼ぶ。
「……ああ、悪い。別に、何ともない」
 俺は謝罪を口にしながら足を動かした。足を動かしながら、この階段の手前に八組までしかないことがやけにしっくり来なかった。それはさっきから感じている寂寥感と同じもので、俺にさらなる寒気をもたらした。



(2010.03.14)