あなたの中の神が言った

3



 なにかがおかしい、そんな気がした。




 どこまでも続く、白い白い雪原にちらちらと雪が降る。
 俺はときどきそれを見上げながら、歩き続けた。
「古泉、方向はこれで間違いないんだな?」
『はい。半時も歩けば、次の標的と遭遇できるでしょう』
 耳元にささやきかけてくるような古泉の声が、穏やかに応える。
「次の標的……朝倉だったか」
『ええ。……あなたは確か、朝倉とは顔見知りだったはずですね?』
「まあな。ちょっと話したことがある程度だったが……仕事熱心な奴だったし、堕天なんかするのは意外だったがな」
 ちらちらと雪は降り続けるが、雲間に時々太陽が覗く。そういうときは、日が雪に反射して、とてもきれいだ。
『堕天した天使団は皆、元々は仕事熱心でしたよ。……顔見知りだからといって、情を差し挟むのは、禁物です』
「言われんでも分かっとる」
 会話の合間に、ぎゅうぎゅうと足元から音がする。積もっているのがさらさらの粉雪なので、踏むたびにこんな音がするのだ。
『なら、いいんですが。あなたはどうも、敵にも情けを掛けてしまいがちな傾向にありますから。それで損をするのはあなたです。……それがあなたの良いところでもあるんですがね』
「悪かったな、どうせ俺はお人好しだよ」
『そうは言っていません。あなたのその、あらゆる者に慈悲を注ごうとする懐の深さは、特筆すべき美点です』
 なんつうことを言うんだ。やめてくれ。そんなんじゃないし、面映ゆい。
『ただ、それではあなたが損をするし、あなたの目的も果たせない。ね?どうか気をつけて』
 畳み掛けるようにささかれて、顔が熱くなる。
 古泉お前この野郎、お前はホントに天使か。そんな女を口説くような声でそんなことを耳元でささやくな。本気でいたたまれない。




 俺と古泉は初めからこんな風だっただろうか。
 古泉はもっと突き放した態度じゃなかったか?
 俺はそれに腹を立てて反発しっぱなしじゃなかったか?




 彼は、頬を染めながら、やけにせかせかと雪原を行く。しかし積もっているのは粉雪だ。時々滑り、転びそうになっている。
『もう少しゆっくり歩いた方がいいですよ。足元、滑りやすいでしょう?』
「うるさい!別にこれくら、のわっ!」
 言ったそばから盛大に体勢を崩して、彼は雪の中に思い切り突っ伏すハメになった。
『……ぷっ』
「……笑うな!」
『あはははは、すみません、でも、だから言ったじゃないですか、あはは』
「だから笑うな!このやろ!」
 八つ当たりでもするように、雪を掴んで斜め後ろに投げつける。彼の耳が捉えている、僕の位置に向けて。
 ひとしきり雪を投げた後、彼は舌打ちしてそのまま雪の上にあぐらをかいた。
「……お前もそんな風に声をあげて笑うことがあるんだな」
 ふてくされてしまったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
『おや、そんなに意外ですか?』
「だって、お前……まあいつでも笑ってるけどな。ニヤニヤ笑いは見ても、それ以外を見たことがねえ」
 彼はそう言うと、口をとがらせながらそっぽを向いた。
『そう言うあなたは、眉間にシワを刻むのに忙しいようですがね』
 からかうように僕が言えば、また彼の眉間にシワが寄る。そうさせているのは僕だ。
 が、彼は反論することなく、その表情のまま、むっつりと押し黙った。そして、ぼそりと言う。
「……悪かったな」
 雪の上にどっかりとあぐらをかいたまま、うつむいて視線を明後日の方向に向けて、気まずそうな表情で。
「まあもともと愛想振りまくなんざ得意じゃないんだが……ちょっと大人げないなとは思ってるんだよ。お前にはなんだかんだ言って世話になってるのに」
 ぼそぼそと早口で言い募る彼の頬は、また赤く染まっている。
『おやおや。どういう風の吹き回しでしょうね』
「うるさい。……柄じゃないのは分かってる。だが」
 そう言うと彼はまた空を振り仰いだ。
『これから戦いに赴くという時に、素直な心情など吐露するものではありませんよ』
 僕はそれを、言葉で押しとどめる。
「……古泉」
『言いたいことを言ってすっきりしたら、未練がひとつ消えてしまう。……あなたに今必要なのは、執念でしょう?大事な言葉は、どうぞ取っておいて』




 そう。言葉など、いらない。彼がずっとこの旅に未練を抱いてくれるなら。
 小さく愚かで、けれど僕のことすら慮る、希有な懐の深さを持った人の子。
 彼の旅路を助けながら、僕はいつしか、彼との旅が終わることをどこかで恐れていた。




「さて、調子はいかがです?準備は万端ですか?」
 停止した時の中、古泉が微笑む。いつもの、いわゆる『古泉ポーズ』だ。
 とうとう、朝倉のいる目と鼻の先の場所まで来た。
 俺は、自分の体を見下ろし、武器と鎧の状態をチェックする。
「ああ、たぶん、問題ない……と思う」
「ええ、そうですね。武器にアーチを選ばずベイルを選んだのも、よい選択だと思いますよ。身体能力は朝倉の方が圧倒的に上だ。まともな斬り合いを避けるという選択肢はありです」
 暗くあせた風景の中で、古泉の黒い服も風景に沈んだように見える。対照的に白い顔が、そっと目を伏せて言った。
「ただし、ベイルは破壊力は大きいがリーチは短いですし、外したときの隙につけ込まれると非常に危険です。とにかく懐に入り込まれないように気をつけてください」
「おう、分かってる」
 俺がうなずくと、古泉も顔を上げ、うなずいた。
 そして、不意に笑みを消して改まった調子で言った。
「……先ほども言いましたが」
「ん?」
「……相手に情けを掛けたり、変に事情を慮ったりしようと思わないことです」
 またその話か。いいかげん耳にたこができるぞ。分かってるって。
「だといいのですが。……あなたは、ご自分の故郷や身内を守りたいのでしょう?そして同じように考える大多数の人々のために戦っているはずです。優先順位を間違えないようにしてくださいね」
 古泉は、そう言って肩をすくめた
 それを見ながら、俺は違和感が急激に喉の奥にせり上がってくるのを感じる。
 ……俺は、いつ、古泉にその話をしただろうか。




 今までにも何度かあった。既視感と違和感。初めて出会ったはずの敵、初めて出会ったはずの武器、どう対処すればいいのか、どう使いこなしたらいいのか、なぜか知っていた。
 そして、古泉。いつの間にこいつは、こんなにも俺への理解が深くなった?
 俺たちは、いつの間にどうやって、こんなにも近しくなっていた?
 




「……なあ、古泉」
「はい」
「この旅は、何度目だ?」
 俺の言葉に、黒い服の天使は虚を突かれたような顔で沈黙する。
 それ自体が答えを物語っている。
「もうずいぶん長いこと繰り返してるだろ。何回も俺はしくじって、そのたびにやり直してる。いや、やり直させてもらってる。神の慈悲ってやつかね?ひょっとして、おまえは俺をやり直させるために使わされたのか?」
「…………」
 古泉は何も言わない。
「お前とのつきあいも、ずいぶんと長いもんになってるんだな」
 古泉は腕を組んだまま、唇を引き結んでいたが、ふいに視線を逸らして、ぽつりと言った。
「……ええ」
 やっぱり、と俺の中にあった違和感がすとんと腑に落ちる。
 目を逸らしたまま黙っている古泉の横顔を見ながら、口を開く。
「俺はな、最初はお前のこと、いけ好かない野郎だと思ってたよ。煙に巻くような態度が信用ならなかったし、いかにも神から言われた仕事だからやってるんだって感じだったし。ついでにジョークのセンスもなかったしな」
「……ひどい言われようですね」
 古泉が俺の方を向いて、苦笑する。初めて見る寂しそうな顔だった。
「……でもな、いつの間にか、お前との旅もけっこう悪くないんじゃないかと思うようになった。……お前の声に導かれながら、どこまでも行けたら、ってな」
 古泉は、また笑みを消す。ただ、今度は明るい色の瞳がそらされず、ただ黙って俺の目を見つめていた。
「なあ、古泉。繰り返す時間の中に閉じこもって、使命も忘れて、自分のためだけの時間を過ごすなんて、ダメだろ。それじゃ、堕天使たちと同じだ」
「……」
 古泉は何も言わない。あれだけ口うるさかった天使は、今、何も言わない。
「それじゃ、誰も救われない。地上も、お前も俺も」
 古泉はそこで初めて、はじかれたように口を開いた。
「…………さん、」
 ……ああ、お前に名前呼ばれるなんて、初めてじゃないか?
「だから今度こそ、この旅を終わらせようぜ。……神は言ってるんだろ?『すべて』を救えって」




 ――いつかは、彼も繰り返しに気づくだろうとは思っていた。気づけばきっと、抜け出そうとするだろうとも。
(けれど……僕すらも救いの対象にするなんて)
 この旅を経ても僕の上には何ももたらされないのだと思っていた。救いの雨は人の子らに降るのみと。
 ……これが人の子が持つ唯一絶対の力。己の意志で進むべき道を選択すること。神から与えられた言葉の意味合いすら変えるほどの力。
 彼が神に選ばれたわけが、ようやく本当の意味で分かった気がする。神が人の子らにやり直す機会を与えたわけも。いいや、堕天使が人間に憧れた理由すらも。



(この旅を必ず終わらせよう。僕も最後まで付き合いますよ。時に小さく愚かで、善良で素直で、けれど神すら超える力を持った、人の子よ)

(必ず出来る。なぜなら神は言っている。あなたは『ここ』で死に続けるさだめではない、と)

























『調子はどうです?大丈夫ですか?』
 古泉の声が問いかける。
 てのひら形の『牢獄』の上、俺はもう一度自分を見下ろし、確かめた。古泉から貸し出された不思議な形の白い鎧。初めて身につけるのに、不思議にしっくりと馴染む。
 ずいぶんと隙間が多いが、それでもこの鎧の防御の堅さを疑いもせず、俺は答えた。
「ああ、大丈夫だ、問題ないな」
 答えて、目の前に広がる地上を見渡す。久しぶりに降り立つ地上は、一面真っ白な雪に覆われていた。あたりには人も動物住んでいないんだろうか、雪が踏みならされた跡もない。
『では、行きましょうか。……今度こそ楽しい旅になりそうだ』
 古泉の声に促され、俺は歩き出す。足跡のない白い大地に向かって。

 ――なぜなら神は言っている。すべてを救え、と。






To Be Continued...(そして物語は終わる。しかし彼らは未だ、旅の途中)