あなたの中の神が言った

2



 ――神は言っている、人類(すべて)を救え、と。


(あ、古泉くん?)
「やあ、どうも」
(調子はどうかしら?)
「……僕のサポートでは、心配ですか?」
(そんなわけないわ。問題はキョンの方。あいつちゃんとやってるんでしょうね?古泉くんから見てどう?)
「よいのではないでしょうか。彼はよくやってくれています」
(そう。……急に仕事、頼んじゃって悪かったわね。最後まで付き合ってあげてね)
「仰せのままに。……元よりあなたの頼みを僕が断るなどありえませんよ。神は絶対ですからね」
(頼むわね。……ありがと)


 通話が切れたのを確認し、終了ボタンを押す。
 地上界を監視する役目にあった天使団が揃って堕天し、人に天界の知恵を授け始めた。
 人の子らは、己の手に余るその大きな知恵を、分をわきまえず振るい始めている。これをきっかけに、地上は大きくゆがんでしまうだろう。
 いっそさっさとリセットするのが吉だ。そう、僕は思うのだが。
「……だが、神は人の子がよほどお気に入りらしい」
 小さく愚かな人の子たちを、それでも見捨てたくない。そのために、彼を地上に送り込んだ。
「まったく、妬けますねえ」
 肩をすくめながら、携帯電話をポケットにしまう。
 神は己が作りたもうた小さく愚かな人の子を導き、天使は神の命ずるままにそれを助ける。
 天の威光は地に充ち満ち、救いの雨が人の子の上に降り注ぐのだ。僕はその雨を受ける側ではない。




『大丈夫ですか?……休憩を取った方がよろしいように見受けられますが』
「う、る、さ、い!」
 ぜえぜえとせわしない呼吸の合間に、たった一言発するのにすら難儀しながら、彼は僕の提案をはねつけた。
 先ほどから、走ったり段差や溝を飛び越えたりと、少々難のある道をハイペースで進み続けてきた。彼は特に体力や身体能力で抜きん出ているわけではないので、もうすっかり疲労困憊している。
『今ここでこんなに消耗しては、次の標的の所までたどり着けても勝負になりませんよ?』
「だっ、から、うる、さい……んなこた、分かってる……」
 限界が来たようで、とうとう彼は立ち止まった。そのまま、両手を膝に当て、下を向いてぜえぜえと呼吸を繰り返す。
『……この近くに、休憩するのによさそうな場所があります。そちらに……』
「……いちいち指図するなよ!休みたかったら勝手に休む!」
 彼が弾かれたように顔を上げ、怒鳴った。そしてまた、肩で息を繰り返しながら、歩き始める。
 ……彼はどうも、僕のことがあまりお気に召さないらしい。
 僕としては別にそれでもまったく構わないのだが、彼の方はこうやってたびたび感情的に反発しては、悪い方の選択肢を選ぶ。よろしくない傾向だ。
『やれやれ。頑固な方ですね。……あなたの最終目標はこの道を踏破することではないでしょう?今は、体力の回復に努めるべきです』
 彼が戦うべき相手は堕天使だけではない。堕天使が作り出した使い魔たちや、場合によっては堕天使を崇める人間たちとも戦う必要がある。
 普通の武器を持った普通の人間たちならば、まず問題にはならない。地上の武器は天界の技術で作られた鎧には通じないからだ。
 けれど彼をわざわざ襲ってくる者は、たいがいは堕天使から与えられた天界の武器を持っているのだ。つまり天界製の鎧を纏っている彼を殺しうる力を持っている。
『疲労困憊した状態で襲撃など受けたらどうなるか、分かるでしょう』
「……それがどうした、お前にゃ関係ないだろ」
 それでもなお、歩みを止めないままで彼が応じた。僕が何か言えば言うほど意固地になっていく気がする。
『関係ありますよ。僕はあなたの旅路を守護するのが仕事です』
「それなのに俺が使命を終えられずにのたれ死んだら、お前は神様に怒られるもんな。神様もさぞガッカリするだろうよ」
 憤りすらにじませて、彼は言った。
 ……彼が僕の何がそんなに気に入らないかは想像がついているのだが。それはまるで子供の駄々のようだ。仮にも神に選ばれた人の子が。
『その通りですよ。我々は互いに神に仕える者ではないですか。神の御心を遂行することが、使命です。そう、互いに』
「俺は地上を救いたいだけだ。神様のためとかじゃなく……」
『地上を救えというのが神の御心です』
 僕の言葉に、彼はまた立ち止まり、沈黙した。
「……俺の心は関係ないってのかよ」
 舌打ちとともに、恐らくは僕に聞かせるつもりではなかったのだろう声が、はっきりと届く。
 ……やれやれ。困った駄々っ子だ。これは早いうちに機嫌を直してもらわないといけないだろう。


『話をしましょうか』
「……なんだよ」
 結局彼は体力が続かず、早々にギブアップして休憩を取った。
 岩場に座って休む彼に僕が調子を改めて言うと、彼はぶっきらぼうながらも多少はこちらに耳を傾ける構えで応じた。
『神は人をお作りになったとき、ひとつ、大きな力を人にお授けになりした』
「は?」
『それは天使にすら与えられなかった力。時に神さえ超えてしまうかもしれない、人が持つ唯一絶対の力』
「……そんなごたいそうなもんを授かった覚えはないんだが」
 ひねくれた言い回しをしながらも、声の調子は素朴な疑問を口にしたという感じだ。
『それは、自らの意志で進む道を自由に選択していくことです。あなたが今、神に命じられる前に地上を救いたいと思い立ち、その通りに行動しているように』
「…………」
『……神の知恵が流出したところで、人がそれを自らの意志のもと、欲のままに振るおうとしなければ、地上に混乱がもたらさることはなかったでしょう。そのような危険をはらんでいると分かっていてなお、神はあなたたちにこの『道を選ぶ力』を、最初にお与えになられました』
 沈黙が続く。しかし彼が耳を傾けているのは分かっている。
『その意味を考えなさい。そして今、あなたが選んだ道を最後まで進むためには何をするのが最もよいかを、常に考え、選択なさい。どのような未来にたどり着くかは、あなたの心次第です』
 しばらくの沈黙の後、先ほどの憤りなどかけらも見えない毒気を抜かれたような声で、彼は言った。
「……なんか、今初めてお前が天使らしいと思ったぞ」
『おやおや。今までは何だと思っていたんです?』
「ジョークセンスのかけらもないタコだよ」
 僕がおどけてみせると、彼は手厳しく応じた。が、どうやら機嫌は直っ<たようだ。
 ……なんだかんだと言って、神に選ばれただけあってこの人の子は根が善良で素直なのだ。道理を以て諭せば言うことを聞く。


 しかし、彼は、口をとがらせながらぶっきらぼうに続けた。
「……俺はな」
『はい?』
「俺は本当に、別に大仰なことやってるつもりはないんだよ。人類を救う使命だの神の御心だのってのはどうやってもピンと来ない」
『……』
「人類にチャンスをくれた神様の気持ちは嬉しいし、それには応えたいさ。だが、家族や友人が、故郷が無事であってほしい、それだけなんだ。だって地上の大半は会ったこともない人たちだぜ」
 彼はそう言い、宙を振り仰いだ。僕に話しかけるときに、彼がよくする仕草だ。話し相手の姿が見えないというのに慣れていないせいらしい。彼から見て声が聞こえてくる方向に、顔を向けているのだ。
『つまり、身内を助けるついでに人類救済ですか。どうしてなかなか気前のいい『ついで』ですね』
「うるさいよ、ほっとけ」
 彼は舌打ちして、下を向いた。
「……しょうがねえだろ、この地上には無数の俺がいる。俺と同じように、故郷やそこに住んでる人が無事だったらいいと思いながら暮らしてる連中が。少なくとも、そういうのが想像できちまったら、見て見ぬ振りなんか出来ない」
『…………』
「……お前は、そういう普通の人間たちのことなんか、顧みないのかと思ってた。神様第一かってムカついてたんだが」
 彼はそう言い、うつむいたまま乱暴に頭をかく。
『……僕の使命は、神の御心を遂行することです。神は、人類を救いたいと願っておられる。ならば、僕の願いも同じですよ』
「……あー、だから、そういうことじゃなくてだな……いや、いいよもう」
 彼はそう言って再び顔を上げたが、今度は僕を『振り仰が』なかった。
 代わりに、勢いをつけて、立ち上がる。
『おや、もう大丈夫なんですか?』
「おう、大丈夫だ。……そうそう休んでるわけにもいかないしな」
 先ほどよりは格段に穏やかに返答し、彼は歩き出した。今度は、いたずらにあせって走り出したりはしない。
 ……やれやれ。ひとまずはこれで大丈夫だろう。世話が焼ける。
 だが、必要な時に必要なだけの導きを与えてやれば、こうしまた自ら使命を果たすべく動き出す。
 小さく愚かで、善良で素直な、人の子。僕は彼が使命という名の道を最後まで走りきれるよう、手綱を手放さなければいい。




「……またか。仕方ないな」
 目の前に、暗くあせた世界がある。
 その中で、彼が敵の刃を受け絶命する手前の状態で、停止していた。
 また、失敗だ。
 最近は感情的に動いて下手を打つことは減ってきたとは言え、やはり戦闘に関してはケアレスミスや僕の指示を聞き損ねたりして命を落とすことが多い。もともと戦闘に関する経験値が低いからだ。
 そしてミスで命を落とした彼に何が待っているかというと、時間を巻き戻してやり直させるのだ。
 これこそが、僕が彼のサポート役として選ばれた理由でもあった。時を自由に操る能力は、天使の誰もが持っているわけではないのだ。
 神は彼が成功するまで何度でも挑戦させてほしいと言った。そうまでして、地上も、そして彼にも無事でいてほしいのだ。
「まったく。本当に、妬けますねえ」
 彼は自分が何度も挑戦を繰り返していることなど自覚していないだろうが、潜在意識に溜め込まれた経験が、彼を後押しする。そして前の挑戦よりは今回の挑戦の方が、今回よりは次回の方が、と次第に上がる戦果も大きくなってきていた。
 だが、堕天使全員を討ち取るには至らない。だから、終わらない。
 どれだけ繰り返そうと、彼が途中でやめようと言い出したことはない。そもそも繰り返しに気づいてもいないのだから、飽きることなどないだろう。
 そう、彼はただの、小さく愚かで、善良で素直な、人の子なのだ。
 だが彼は、きっと最初に決めた意志を貫き通すだろう。その意志は救いとなって、人の子らの上に降るはずだ。それがいつになるかは分からないが。
 僕はそれを、眺める側。


 ……携帯電話が鳴った。定期的に入る、神からの着信だ。


(あ、何回もごめんね、古泉くん。……どうだった?)
「ええ、やっぱり今回もダメでした」
(もーっ、またぁ?)
「彼は僕の話をちゃんと聞いてくれないもので」
(しょうがないわねえ)
「ま、焦ることはないでしょう。時間はたっぷりあるのです。気長にやりますよ」
(うん、悪いわね。……最後まで、キョンをよろしくね)


 通話を終えて、携帯電話をしまう。もう一度、停止した時の中で固まり続ける彼に向き直った。
 命を落とす直前の、苦渋と驚きと絶望に満ちた顔。
 その頬を、そっと撫でる。
 あなたは己の人生がこの一度きりで終わると思っているのだろう。けれど、それは新たな始まりなのだ。
「さあ、もう一度始めましょうか。僕も付き合いますよ。小さく愚かで、滑稽で愛しい人の子よ」
 なぜなら神は言っている。ここで死ぬさだめではない、と。






To Be continued...(本当にそれは、神の言葉か?)