きっと木は倒れてなんかないさ


「そうですね……では一種の思考実験として」
 ベンチで隣に座って長い足を見せつけるかのように組む男が、いつも通り無意味にニコヤカに、無意味に回りくどい言い回しで言った。
「過去の行動が未来を形作るものだ、というのは恐らく一般的な認識ですが、ならば、未来が過去を形作ることはできると思いますか? ああ、もちろん時間遡行・時空改変といった手段によらずにです」
「ああ?」
 俺はコンビニで買ったホットレモンのペットボトルを開けようとする手を止めて古泉を見た。
 ――いわゆるアル晴レタ日ノコト、である。魔法以上の愉快がハルヒの気まぐれによって降り注ぐこともあるが、平日は暇に飽かせて古泉と勝負の分かりきったゲームをしては帰路につき、土日は俺の財布の中身を生け贄に楽しいティータイムを召喚のち不思議探索という名の散策をする日々が続行中だ。つまりは平和である。
 そしてハルヒの気まぐれによる魔法が降り注がない日は、こうして古泉プレゼンツ・魔法以上の奇論珍説大講釈が始まることもある。
 主に部室にハルヒがやって来る前やら、下校路で女子たちと別れたあとやら、不思議探索で古泉とペアになったときやら。とにかくハルヒの耳がないときに。
 今日は不思議探索でペアのパターンだ。当てもなく男二人で歩き回ったあげくに川沿いの公園のベンチに座って、一体何をやってんだかな。
 俺は形ばかり考える真似事をしてみたのち、改めてペットボトルの蓋をひねり開けた。
「無理だろ普通」
 答えて、開けたペットボトルに口をつける。
 俺の常識に沿って考えればだが、普通は過去と未来とは過去→未来の一方通行なものであるはずだ。時間遡行だの時空改変だのの反則技なしに過去を変えられるとはとても思えない。
 しかしわざわざそんなお題を投げてくるってことは、なんか普通でないズルでもして過去を変える手でもあるのか、超能力者には。
 一口飲んで男前の超能力者を見れば、同じくコンビニで買ったホットミルクティーのボトルを片手に奴は微笑む。
「いいえ、超能力も必要としませんね。そう、確かに手はありますが、特別な能力は必要とはしません。恐らくは誰にでも出来ることですよ」
「ほー、大きく出たな。具体的にはどんな手を使う気だ?」
 長丁場になりゃしないだろうな。このベンチ、日当たりはいいからちょっとした休憩にゃもってこいだが、さすがに冬場の野外だ、長話にゃ向かないぜ。
「手短に終えられるよう善処しましょう。それともなんでしたら、喫茶店などに場所を移しますか?」
 お前のおごりならな。それよか話の腰を折るな。
「はいはい。では例えば、そうですね……僕があなたと初めてお会いしたときのことを、思い出してみてください。あなたは僕という人物についてどういう感想を持ちましたか? ああ、思い浮かべてくださるだけで結構です。具体的な内容については、まあ興味はありますが、こだわるところではありませんので」
「いやこだわれよ。お前のことだろうがよ」
「話の腰を折るなとのお達しでしたので。こだわっていたら畢竟、長話になってしまうでしょう? ……まあ、別の機会にでも」
 俺のツッコミに奴はそう言って肩をすくめる。
 お前なあ。だったら最初からそんな例題を出さなければいいものを。
 こいつのこういう困ったクセはいつものことなので、俺は溜息ひとつで受け流すことにした。いちいち食い下がってたら本当に話が長くなるし。
 ――かの五月、ハルヒに乗っ取られてしばらく、まだ魔改造が進みきっていない頃の文芸部室での出会いを適当に思い出してみる。
 ハルヒに掴まれて部室に引きずり込まれた手が、白かった。
 すらりと長身で、何かスポーツをやっていそうな雰囲気。
 それでいていかにも運動部っぽいゴツさやムサ苦しさはない。
 優等生然とした、きっちりとした制服の着こなしと落ち着いた身のこなし。
 明朗な笑顔と、礼儀正しく差し出された手。
 歯ブラシのCMに起用したくなるくらい綺麗な歯ならびといい、スーパーのチラシのモデルくらいには採用されそうな整った顔立ちといい、これで性格がよければ人気者になるんじゃねえの思ったのを覚えている。
「第一印象から、変わった点もあるでしょう」
「そりゃまあな」
 今じゃ性格がいいどころかいい性格してんじゃねえかと思うくらいだしな。
 あんな外国人みたいにオーバーアクションで話すと思わなかったし、あんなにゲームが弱いとも思わなかったし。
 一番最初の不思議探索で高校生らしからぬ格好できっちりと決めてきたのにも引いた。
 こんなに回りくどい話し方で面倒な奴だとも思わなかったし、こんなに笑顔の種類が豊富でしかもそれを見分けられるようになるとも思わなかった。
 思い浮かべたことを反芻しながら頷くと、古泉も満足げに頷いた。
「でしょうね。まあ色々ありましたから。出会って数日後には僕の事情を明かしたりもしたわけですし、その後も様々な出来事をくぐり抜けてきました。印象の変遷はあって当然です」
 言いながら、古泉は遠い風景を見るように懐かしげに、目の前の川に目を向けた。
 まあ遠い目をしたくなる気持ちは分かるぜ。確かに色々あった。トンデモな体験も、ハチャメチャな事件も。だがそれが今の話題とどう関係するのかさっぱり分からん。
 そう思いながら言葉の続きを待っていると、古泉は突然こちらを向いてにっこりと笑顔になり、今まさに帽子から鳩を出現させたマジシャンのように言った。
「……と、そのように。あなたの中の『僕の人物像』という過去は、出会った時点よりも未来時点で遭遇した出来事によって情報を上書きされて変化を遂げました。未来が過去を形作ったわけです。いかがですか?」
 なぜか得意満面の古泉を見て、俺の方は逆に顔面に苦々しさが一気に忍び寄るのが分かった。
「なんだよ、単なる言葉遊びか」
 言いながら、ホットレモンを口に含む。甘酸っぱい。
 そういや一種の思考実験って言ったっけな。もっと何かこう、理屈をこね回すだけにしてももうちょっと珍奇な大風呂敷を広げるのかと思ってたが。
「あいにくと、平凡な発想しか持ち合わせない人間なもので」
「よく言うぜ」
 俺から見ると頭良すぎて頭おかしい発想をしてるときが割とあるように思うがな。
 ミルクティーに口をつける古泉を横目にじとりと睨むと、野郎はかぶりを振って目をそらした。
「話を戻しましょう。言葉遊び、まあ言ってしまえばそうかもしれません。過去の時間平面で起きた事実自体を変えるには時空そのものの改変が必要ですが、ある視点から言えば、そんな行為などせずとも過去は変えられる、ということですよ」
 そう笑いながら言う古泉の言葉に、ぎくりとする。
 ちょっとばかり、思い出したからだ。このあいだの8日後からきた朝比奈さん事件。あのときに思ったことを。
 どうにかして過去にあったことの痕跡を握りつぶし、関係者全員の記憶も消しちまえば、過去は消せる。
「例えば、そうですね……誰も見ていない森の奥で木が倒れたとする。そこに何年も何百年も、倒れた木が朽ちて土に戻るまで誰も訪れなかったなら、それは木が倒れなかったのと同じことです。ある事実について目撃者や証拠がなければ、それはなかったことにできる」
 俺の思考を裏付けるようなことを言いやがる。
「逆もまた然りで、ある過去の事実についての証拠さえ見つかれば、それが捏造であれ真実であれ、過去はその証拠が持つ情報によって上書きされるのです。先ほどの例で言えば、後世に森に分け入った人が調査を重ねてあるとき倒れた木の痕跡を見つけるように。あるいは、あなたが僕という人間の人物像について、これまでの付き合いの中で印象を変遷させてきたように。さらにもっとスケールの大きな例えでいけば、歴史書は勝者の都合で書かれている、とよく言いますね。これとて未来が過去を加工し形作った例でしょう」
 古泉は笑っているが、俺はあまり笑いたい気分にはならなかった。出会ったばかりの頃なら歴史も哲学も量子論も詳しくねえよと言ってこんな談義は蹴り飛ばしてやるところだというのに。
「要するに、人間にとって過去というのは過去そのものではなく、おのれの記憶と身の回りを取り巻く目撃者と証拠品とからなる情報の集合体でしかないのです。それらの情報に基づいておのれに過去があると錯覚している、そう言ってもいいくらいですね。それは分厚い氷の上を歩いていると思いながら、その実薄氷の上を行くのに似ています。ちょっとした物忘れや勘違い、思い込みにすら簡単に踏み抜かれて破れてしまうのですよ」
 古泉の言葉に、そりゃいくらなんでも極端だろうとか自虐的に過ぎるぜとか、いろいろな反論が俺の中を通り過ぎ、結局出てきたのは別の言葉だった。
「なら、俺とお前も現在進行形で錯覚中か」
 古泉は相変わらず微笑みながら答える。
「今の理屈でいけばそうなりますね」
「俺とお前の話は噛み合ってるように見えるし、SOS団で一緒にやってきた経験も共有してるように見えるんだが」
「互いにそういう記憶を植え付けられて、世界ともどもほんの5分前に生まれた、という可能性もありますよ」
 ああ言えばこう言う。ほんと面倒くせえ奴だな。
 お前は錯覚の方がいいってのか? こののんべんだらりとした時間とトンチキが同居したような超常的日常が。SOS団たった二人の男手同士向かい合って下手の横好きのゲームを遊びながら、相棒をやる日々が。
 錯覚ってことにして誰かに熨斗つけて贈っちまいたくなるか? 超能力者として、謎の組織の一員として、世界の維持に奔走する仕事は。
「そうだとして、」
 俺は言葉を切って、ホットレモンをあおった。もうだいぶぬくなってきている。冷め始めたレモンの味が、やけに酸っぱかった。
「錯覚結構。この錯覚が俺にとっての正しい世界だ、そう決めちまう自由くらいはあるんだろ」
 いつか対等な友人として昔のことを笑い話として語り合いたいと言った、あの言葉が錯覚だなんて言わせる気はねえからな、俺は。
 古泉を振り返ると、奴は相変わらずスタイリッシュに組んだ長い足を見せつけながらこちらを見上げてくる。
「さて」
 奴はたかだか百何十円のペットボトルを、まるで女王陛下のお茶会で供される飲み物のように優雅に傾けた。俺が同じものを持ってどんだけカッコつけたところで値段相応にしか見えないだろうに憎たらしい奴め。
「しかし仮に僕たちが錯覚中だとして、錯覚から目を覚ました僕たちが何と思ったとしても、それは錯覚中の僕たちには関知しようがない問題でしょう」
 そう言ってペットボトルの蓋を閉めながら立ち上がる。その顔は、やっぱり笑っている。
 それを確認して俺はきびすを返した。
「ならこれが錯覚だろうがそうでなかろうが関係ないな」
 古泉の内心がどうなのかは知らん。俺は人の心の中を目撃できる超能力を持ち合わせていないからな。森の奥で木が倒れたのかどうかは分からない。
 だから見て聞いたことを信じるだけだ。俺は俺の中に形作られた過去を信じる。
 歩き出した俺の背後で、見なくても分かる、古泉がお決まりのオーバーアクションで肩をすくめて言った。
「まったくその通りかと」



ごく短いおまけ