夜の窓辺に、吸血鬼がやってくる。
それは、俺が学校から帰って飯を食って風呂に入って、投げやりに宿題の回答を埋めてみたり、今週のマンガ雑誌を読んでみたり、やりかけのゲームを黙々と進めたりといった、いつもの日常のルーティンを終えて、さあ寝入ろうかという時分に、来る。
コツコツ。ちょっとすると聞き逃したり空耳かと思ってしまいそうな、小さなノック。
ひょっとしたら本当に聞き逃してほしいと思っているのかもしれないが、俺はどういうわけか一度もそれを聞き逃したことがない。……どういうわけかと言うか、残念なことにと言うか。
俺はそのとき寝床に入ろうかと思っていつもの寝間着のスウェット姿で電灯のスイッチの紐に手を掛けていたわけだが、すぐにきびすを返した。
窓にかかったカーテンをおざなりにかき分け鍵を開けて窓を開くと、ベランダには思った通りの人物が夜風の匂いと共に立っている。
「……どうも、こんばんは」
その言葉と共に風が部屋に吹き込み、カーテンを大きくはためかせた。
吹き消されるろうそくのように、部屋の明かりが落ちる。もちろん、誰もスイッチに触れてなどいないのに。
しかし俺はそれにもう驚かない。……慣れたからな。超常現象だって、慣れてしまえばただの日常茶飯事だ。しかたないだろう、ただでさえ俺は神様もどきと宇宙人・未来人・超能力者に囲まれて日々を送っているのだ。
まあ、空間限定超能力者のみの属性だと思っていたこいつにこんな芸当ができると分かった時は、さすがに度肝を抜かれたが。
そんなことよりも。
「おう。まあ、入れよ。……古泉」
挨拶したきりだんまりで立ちっぱなしのそいつに、俺は部屋の中へ戻りながらそう声を掛けた。招かれなければこの窓枠を踏み越えてくることすら出来ない、制服姿の吸血鬼に。
「……お邪魔します」
ベランダに靴を脱いだ古泉が、音もなく部屋に足を踏み入れた。
暗い部屋を、外から届く街灯が照らす。が、はっきり言って真っ暗よりはなんとかマシ、程度の暗さだ。何もかもが曖昧な薄闇に沈む中で、視界がさらに翳る。
「すみませんね、毎度」
振り仰ぐと、すぐ目の前に古泉のハンサム面があった。その背後では、さっきまで風にうるさく揺れていたカーテンが嘘のように鎮まっている。そして窓はしっかりと閉じていた。古泉が入ってきたとき奴が閉めたのかもしれないが、窓を閉める音などしなかったというのに。
奴がこうして訪ねてくるようになってから、この手の超常的小ネタには本当に事欠かなくなっちまった。だがそんなことはどうでもいい。俺がそれを受け入れているのだから。
俺は向き直ってまじまじと奴の顔を見上げた。暗い部屋の中でさらに逆光だが、これだけ近づくとさすがに古泉の表情や顔の作りまで見える。
どんだけ光量が足りなくても、いや、足りない分だけよけいに、なんというか、どんな時でも美形は得だなちくしょう。
「……やっぱ、ちょっと顔色悪いか?」
「この暗がりでは、どれだけ健康優良な人間だって顔色が悪く見えますよ」
俺の問いに、古泉がうそぶく。うるさい、たしかにこう暗くちゃ色なんざよく分からんが、それでも血の気が引いてるのとちょっと憔悴した雰囲気は伝わってくる。
「お前な、そうやって、」
自分のことなのに、茶化してごまかすのをやめろ、と言おうとして、言えなかった。
古泉が覆い被さるように抱きついてきたからだ。肩に、吐息を感じる。
その吐息も抱きついてきた古泉の体温も、どこかひんやりとしていて背筋が震える。こっちは何度経験しても、慣れない。
「咬ませて、いただけますか」
古泉の頭が、鼻先を擦りつけるようにゆっくりと、俺の肩から首の付け根へ移っていく。移動していく感触に、また震える。
「……嫌だと言ったらどうするつもりだ。拒否するつもりなら最初から咬まれると分かってる相手を招き入れたりせんぞ」
俺はお前を受け入れる。後は、お前がそういう俺を受け入れるかどうかだ。
首につけられた唇の動きで、奴が笑ったのを知る。くす、と控えめに上がる笑い声を聞きながら、やっぱりどうにも背筋もぞもぞとしたものを感じて落ち着かなかった。
だいたいがおかしな話だ。俺はなんで古泉の腕の中で首筋に鼻先や唇を押し当てられて落ち着きをなくしてなきゃならんのだ。
なんでかと言ったら、こいつが咬ませてくれと言って、俺がそれに頷いたからだ。だから今さらセルフツッコミなどしても手遅れなのだが、それでもつっこみたい、なんでこいつにそれを許した。
……ハルヒが次々に繰り出すトンデモ現象とハードスケジュールな映画撮影、そしてクラスの文化祭準備、それらに疲れ切った古泉が俺の家に訪ねてきた。秋らしくない秋の夜のことだ。
連れ出された歩道橋の上で。
「これで閉鎖空間など出ようものなら、僕は倒れ伏してしまうでしょう」
そんなもんが出なくても倒れそうな顔で、奴はそう言った。
やめてくれよ。お前に倒れられたらハルヒのストッパーが一人減るだろ。
「出来れば持ちこたえたいところですが、ね。……暦の上では秋になったというのに、最近はまだ日差しが強いでしょう。苦手なんです。今年は夏も出ずっぱりでしたし、さらに撮影で毎日のように外に出ているから参ってしまいましてね」
「吸血鬼かおまえは」
そういえば孤島の合宿の時も市民プールに遊びに行った時も、夏はずっと日焼け止めを欠かさなかったなこいつは、と思いながらつっこむと、さらりとした同意が返ってきた。
「はは。ひ弱で申し訳ない。……実はそうなんです」
「はあ?」
「……と言ったら、あなたは信じますか?」
バカバカしい。
歩道橋の欄干に肘をついたまま、古泉が笑う。一見するといつもの胡散臭い笑みだが、明らかに精彩を欠いていた。
「無理してそんな悪趣味な冗談を言うくらいなら、帰って寝ろ。その方が体力回復に役立つだけマシだ」
「本当に、本当だと言ったら?」
「……おい」
「眠るよりも、あなたを咬んだ方が、回復する。そう言ったら、あなたはどうしますか」
「どうって、」
言葉に詰まる。
じっと俺を見つめる古泉の目が、いつもの胡散臭いポーズを忘れているように見えたからだ。
それは切実に訴えてくる。飢えを。何に対してかはよく分からない。吸血鬼だというからには血に対する飢えかもしれないし、もっと違うものかもしれない。
だがひとつだけはっきりしていた。
いつだって『機関の古泉一樹』の顔を取り繕い続けていた古泉が、本音を、吐いている。
「……お、」
「なんてね。……忘れてください」
口を開いた俺を遮って、古泉は笑いながら俯いた。
古泉の視線から解放されると同時に、放り出されたような気分で、俺は立ち尽くす。
古泉は歩道橋の下に広がる道を見下ろしながら畳み掛けた。
「つまらない悪趣味な冗談ですよ。あなたの同情を引こうとしているだけなのかも」
またそれか。お前はなんでもそうやって煙に巻こうとする。お前自身の本音すらも。
おかげで、たまには真面目に反応してやろうかと思っても、俺は何が言いたかったんだか忘れちまうじゃねえか。
たぶん俺は、それにムカついて、もう一度古泉に顔を上げさせたくてしょうがなくなったのだ。
ぞわぞわと背を這い上る震えを誤魔化すように、首元の柔らかい髪に覆われた頭に命令する。
「……いいから、咬むなら咬むでさっさとしろ」
また、くす、と笑う唇の動きを肌で直接感じる。もう寒気も怖気も我慢してやるから、いいから早くやれ。
「そんな風に急かされると、なんだか妙な気分になりますね。……焦らしてみたくなります」
首筋に唇をつけたまま、古泉がささやく。
このアホ、獲物を咬みに来た吸血鬼が獲物に急かされてもったいぶるなんてなんの笑い話だ。
……ああ、そういえばたまにシャミが捕ってきた虫を前足で転がして遊んでるのは見たことがあるな。俺は猫にもてあそばれる虫と一緒か。冗談じゃない。
「あ、ほな話はいいから、……」
早く終わらせろ。情けない声で途切れ途切れに告げると、古泉が三度俺の皮膚の上で笑う。お前分かっててやってるだろこの野郎。
「……では、ちょっと痛いですが、我慢してください」
そんなことはもう分かっとる。そんなこれから採血を受ける患者に声を掛ける医者のように言わなくてもいい。
唇が俺の首を撫でるように滑り、スウェットの襟ぐりを少しはだけさせて、首の付け根に落ち着く。
一呼吸置くような古泉の動きを待ちながら、俺は腕を伸ばして古泉の肩を抱き返す。
開いた口が、がぶりと、音でも立てそうな強さで食いついてきた。立てられた歯の感触に、当然痛みが走る。
古泉の肩を、ぎゅっと強く掴む。
痛みが強くなり、ぷつりとはち切れるような音とともに、皮膚に異物が食い込んでくる感触。
「あ……う、」
太く鋭い針を打ち込まれたような痛みに視界がぼやける。しかしそれはすぐにむず痒い痺れに変わって、首から全身へと駆け巡る。
ぞくぞくする。痛みは遠いのに、古泉の唇が歯が触れている感触を肌は敏感に拾う。咬まれたところを中心に全身を冒す感覚に膝が震え、うまく立っていることすら出来ない。
ほとんど夢中で、古泉にすがりつく。強く掴みすぎて、奴のブレザーがまた皺になるかもしれない。
だが頭で冷静にそんなことを考えられるというのに体はまったくもって情けないていたらくで、俺は肩から手を離すと、震えながら古泉の背中に回し、さらに強く、古泉のブレザーを掴み直した。ああ、こりゃ完全に皺つくな。
俺の動きに応じるように、古泉もよりきつく背中に手を回してくる。
「ん、……」
まるで愛し合っているようだ。
俺はただ、古泉がようやく見せた古泉自身の本音を逃がすまいとしただけなのに。
足腰の力が抜けて、尻餅をつきそうになる。古泉はそれを受け止めてゆっくりと俺を床に座らせながら、首元から顔を離した。
咬まれた場所が、じんじんする。床にへたり込んで、古泉を見上げた。古泉は俺を抱きとめたまま、俺と一緒に床に膝をついている。
暗がりの中で、潤んだ目が俺を見つめる。やめろ、お前がそういう顔をすると少女漫画だ。水気を含んだ長い睫毛も、さっきよりは格段にマシな血色になったように思える頬も、似合いすぎていて心臓に悪い。
俺の背中から手を外した古泉が俺の頬に柔らかく触れる。親指が、ゆっくりと俺の目尻をなでた。その感触で、自分もお互い様の涙目になっていると知る。
古泉が、その指を自分の口に運ぶ。古泉の指が口の中に消えていくのを、つい目で追った。
「……しょっぱいです」
「あ、たりまえだろ、甘くてたまるか……」
「あなたのだったら、」
古泉の手が、俺の喉に触れる。不意打ちの感触に思わず体が揺れた。そのまま、つつつ、と撫で下ろされて、咬まれた場所に指が当たる。
そこにまた、古泉が顔を寄せた。まだ痛む咬みあとから再び痺れが広がりそうで、俺はまた背筋を震わせる。
「甘くてもいいかな、と。……思うんですが」
バカな御託を並べる暇があるなら、早く口付けろ。
俺はお前の牙を受け入れる。……後は、お前がそれを受け入れるかどうかだけだ。
音もなく、古泉が笑った気がする。古泉のすべてが見えるわけじゃないから、俺がそう思い込んでいるだけかもしれない。
首筋にひんやりとした息を感じて、俺はただ受け入れるべく、目を閉じた。