「飲んでください」
 口元に当てがわれた杯を、首を振って拒否する。中身がちらりと見えたが、絶対に嫌だ。
 あんな、ルビーのように重く暗く赤く輝く、芳しい香りのするものを、俺に見せるな。
「またそうやって……ちゃんとした人間の血ですよ。飲んで」
 分かってるよ、おぞましい。俺は人の血に対して、輝いて見えるだとか芳しいだとか感じるような、化け物に変わっちまったんだ。思い知らせるような真似をするな、第一それは誰の血だ。この、馬鹿泉。
「……そんなことにこだわっている場合ではないでしょう。あなた、このままでは飢え死にしますよ」
 うるさい、放っておけと言っているだろうが。
 俺はのろのろと寝返りを打って、ベッドに張り付くようにうつ伏せた。
 ……体が重い。言うことを聞かない。気を抜くと、体の力をすべて抜いて、その重さに身を任せてしまいそうになる。
 もう、こんな体になってから、ろくに飲み食いしていないからだ。以前だったら喜んで食べていたような好物も、受け付けなくなってしまった。
 今の俺の舌と胃の腑が受け付けるのは、赤くドス黒く鉄臭く生臭い、血だけだ。それも、人間の。
 はあ、と、溜息。ついでコトリと音がした。古泉が杯をサイドボードに置いたらしい。
 俺の寝ているベッドにどさりと重みが乗る。首だけを少し巡らせて見ると、古泉がベッドの端に腰掛けて、こちらを見ていた。
 ……やつれたな。ここには部屋を薄暗く照らす蝋燭の明かりしかないが、変わってしまった俺の目には、この暗さでも奴の優男ぶりと、それに陰りを加える疲れの気配がよく見える。
 俺がこうなっちまってから、こいつはずっと対外的には俺がただの病気であるように装いながら奔走していたからな。昼間は俺のことがバレないように普通に生活し、夜は俺の世話を焼く。……俺を治すにはどうすればいいか方々をあたって調べたりしているとも聞いた。こいつの方が先に過労死しちまいそうな勢いだ。
 それに。
「……その血、お前のか」
「ええ」
 古泉はあっさり頷いて、腕を捲って見せた。そこには白い包帯が巻かれている。
 やっぱりな。いくら理由があっても他人を切りつけて血を流させるような外道じゃない。そんなことをするくらいなら、自分の身を差し出すと言い出すのがこいつだ。実際、何度も言われた。自分を咬めと。
「馬鹿だな、お前……俺のためにそんなにする必要なんか、ないだろ……もっと自分を大事にしろよ。おれはどうせ」
 そう言った瞬間、古泉が目を見開く。そして素早く手が伸ばされ、俺は襟足を押さえつけられていた。
「……ふざけないでください。あなたは一足先に死人にでもなったつもりですか。僕はあなたを諦めない」
 ぐ、と体重を掛けられて、息が詰まる。痛い。押さえつけられた首根っこじゃなく、胸が。
「ば、っかやろう、お、俺だって、好きでこんなになったんじゃねえや!……はな、せ……よ!」
「っ、」
 古泉をはね飛ばして、起き上がる。自分でもどこにこんな力が残っていたのかと思ったが、すぐに力が抜けて、ベッドの上にへたり込んだ。
「っ、の、待ちなさい!」
 そこに、はね飛ばされた古泉が素早く起き上がってのしかかってくる。
「く、」
 這いつくばって逃げようとした俺の背中に、どすりと膝を乗せられて、また息が詰まる。乗せた場所がいいのか体重のかけ方がうまいのか、どうやっても古泉の下から抜け出せない。
 しばらくじたばたと無言の攻防を続けた末、疲れてきてとうとう抜け出すのを諦めるまで、どれだけの時間が掛かったのか。
「……」
「……」
 お互い何も言わず、ただ肩で息をする音だけが部屋の中に響く。
「……どうです」
「……何が」
 古泉は大きく息をついて呼吸を整える。ああ、なんて耳障りな音だ。生きて呼吸するあたたかいえもの。
「あなたはもう、人間の力でも押さえ込めるくらいに衰弱しているんですよ。本来ならこんな風に取っ組み合いになったら、あなたの方に圧倒的な分があるはずなのに」
 ずっと我慢していたのに、さっきから漂ってきていた古泉の血の香りが濃くなって、たまらない。今の一暴れで、傷が開いたのかもしれない。
 気持ちや行動まで化け物になるのはまっぴらごめんだと思ってずっと血を拒否してきたのに、腹が減りすぎて、もう疲れすぎて、わけがわからなくなっている。
 でも嫌だ、でも嫌だ。こんなのは俺だけでたくさんだ。古泉を咬んでこいつまで俺と同じ思いをさせるのは、いやだ。ヴァンパイアになった自分を受け入れたくなんかない。
 一杯一杯になっていた俺に、古泉の声が、氷雨のように降ってくる。
「逆だったらよかったのに」
「なに……」
 思わず振り仰ぐと、古泉は冷たいのか泣きそうなのか分からない顔で、笑っている。
「僕がヴァンパイアになったなら、真っ先にあなたを咬みますよ。そして永遠に逃がさない」
「何を、言ってん、」
「本当ですよ。僕はあなたを化け物に変えることをためらいません。……そしてあなたさえいれば、永劫だって耐えられる」
 俺を見下ろしうそぶく奴の顔をまじまじと見る。相変わらずよく分からない笑顔のままでいる古泉に、精一杯を込めて言い返す。
「嘘を、つけ」
 お前にそんなことが出来るわけないだろうが。お前が、そんな奴じゃないのは俺が知ってる。
「本当です」
「うそだ」
 お前は本当に、あの手この手で俺に血を飲ませようとするんだな。『だから気にせず血を飲め』ってのか?こんな時まで、そうやって偽悪的な言葉を吐いてまで、お前は。
「……本当です。だから、」
 古泉の気配が近くなり、匂いも濃くなる。耳元に、古泉の吐息。
「僕を欲しいと、言いなさい」
 俺の背中に乗せた膝をどけもしないで、声だけはひどく甘く古泉が言う。
 うつ伏せながらシーツを握りしめる。やめろ。そんな風に俺を追い詰めるな。
 古泉の体温を感じるたび、何もかも委ねたくなってしまう。荒れ狂う飢餓感に何もかも委ねて、古泉を貪って、仲間にして、そしてこいつと永遠を生きる。何かのはずみで滅びるまでずっと。
「ダメだ、こいずみ……」
 それは俺のうつろな人生と破滅に、お前も巻き込むってことじゃないか。
「言いなさい」
 くそ、人の言い分を無視すんな馬鹿泉。
 でも俺にはもう逃げ出す体力も力尽くで古泉の言い分をねじ伏せる気力もない。ねじ伏せられないから、古泉の言葉が頭の中に反響して、くらくらする。
 俺はいつまで耐えられる。この夜が明けるまで、俺は気持ちだけでも人でいられるだろうか。それとも身も心もただの化け物になってるんだろうか。
 絶望的な俺の耳に、古泉が最後通牒のようにささやきを吹き込んだ。
「……僕は、あなたを逃がしません。あなたも僕を、逃さないで」






君野那波

信江さんお誕生日おめでとうございます!そしていつも本当にお世話になっています。
お祝いと感謝の気持ちと信江さんに喜んでもらえそうな萌えネタを話に詰め込んだら、入りきらなくて二本立てになりました……すみませんすみません
えー、まずは吸血鬼キョンに言いなさい古泉を添えて、どうぞ。


→ 夜更けのヴァンパイア