俺には権限がない
(古泉幕僚総長に心配されるキョン作戦参謀)
「っ、ちょ、待、待て、って……!」
人がさっきから待ったをかけているというのに、古泉の野郎は俺のことなど一顧だにしない風で、歩調を緩めもしない。
それどころかがっちり掴まれて引っ張られる腕が、痛くてしょうがないので緩めてほしいんだが、おい。
「感心できませんね」
まるっきり無視しているかと思ったら、前を向いたままの古泉が、えらく冷えた声で言った。
「その言葉遣い。……作戦参謀?」
人気の無い静かな廊下に、床を鳴らす踵の音と古泉の声だけが響く(たまたまだろうか。ここは完全シフト制なので、平時でも勤務中の人間が途絶えるということはないはずなんだが)。
そうだった、ここはまだ一応公共スペースで、俺たちは部下と上官だ。
「……申し訳ございませ、いっ……痛い、っての!」
我に返って言葉遣いを正そうとしたそばから腕をさらに強く引かれて、たまらず声を上げる。この馬鹿力!ちったあ加減しろよ!
俺の抗議を無視して、古泉は目の前のドアが開くと同時に俺を上級士官の居住エリアへ引っ張り込んだ。
そのまま引っ張られて俺の部屋の前まで連れて行かれ、勝手に古泉の権限でロックを解除されたあげくに部屋の中に放り込まれ、さらに肩を掴まれてベッドまで引っ張っていかれ、そのまま投げ出されるようにして座らされる。声を上げるどころか息をつく暇すらない。
「ちょ、おま、こら!……痛いだろうが!さっきから!」
投げ出された勢いでベッドに転がり、その反動で起き上がって、ようやくまともに口をきけた。……と、思ったら、腕を組み俺の目の前で仁王立ちする古泉と視線がかち合う。
「少々乱暴になったことは謝罪します。ですが、文句を言える立場だとお思いですか?」
『怒っています』という気配を隠しもせずに、古泉は言った。
「なぜとっくの昔に上がっているはずのあなたが執務を続けていたんです」
想像してみてほしい。ただでさえ笑顔を消すと迫力を増すハンサム面が目を細め、俺を見下ろしているのだ。くそ、古泉のくせに凄むんじゃねえよ。
「……気になることがあったので、データを洗い直していました」
言いながら、目を逸らす。古泉の声がまたワントーン硬くなった。
「そのくらい、部下に回せばいいでしょう」
「自分でチェックしないと分からないこともあります。それに、部下にやらせたところでデータチェックの結果を判断するのはどうせ自分ですので。だったら最初から自分でやった方が早い」
「責任感が強いのは大変結構ですが、休むときは規定通りに休んでいただかないと。あなた確か夜勤から連続で通常勤務だったはずでしょう。その上に残業の上乗せは、無茶が過ぎます」
思わずムッとする。事実だからまあ反論は出来んが……お前にだけは言われたくない。普段どんだけ規定ぶっちぎりの連続勤務と残業の嵐だと思ってる。
睨み上げると、古泉は渋い顔で俺を見下ろしてくる。
「それはそれ、これはこれです。……人には超過勤務は控えろ健康管理をしろとうるさく仰るのに、ご自分のことは棚上げなさるんですか」
「俺は加減を分かってやっていますし、部下任せに出来る案件は遠慮なくそうしています」
お前の場合は加減も手心もサボリもなく仕事の虫だろうが。お前こそ無茶が過ぎるんだよ。
「あなただって大概ですよ。職場に鏡を置いたらいかがです?ご自分の今の顔色の悪さを見たら、そんなことも言う気もなくなるでしょう」
ならお前の部署にも鏡が必要だな。部下にも手鏡持たせとけ。いざというとき印籠よろしく出させてやる。
「人のこと注意したきゃ、まず自分のことをなんとかしろ。俺が普段どんだけ心配してると、」
「なら、僕が今どういう気持ちかもよく分かるでしょう」
「……お前な!」
思わずカッとなって、立ち上がる。が、目の前のバカの顔が『ひどいことを言ったが謝りません』から『やっぱり自分を棚上げして言いすぎたかな』を経て『ごめんなさい、でも謝りませんから』に変化するのを見ているうちに、毒気を抜かれてしまった。
いや、毒気というよりむしろ、思いっきり頭を撫で倒してやりたくなったが、どう考えてもそれができる立場じゃない。
なんというかまあ……お前も悪いが俺も悪くないわけでもない。お互い様だ。
古泉はしばらくそのままばつが悪そうにしていたが、溜息をついて気を取り直すように俺を見た。
「すみません。……とにかく、休んでください。ちゃんと着替えて。あなたがちゃんと眠るまで、ここに付いてますから」
「は?お前はまだ勤務時間中だろうが。仕事戻れよ」
「今は休憩中です。僕の権限でそう決めました」
そう言ってきびすを返すと、古泉はキッチンスペース(と言っても簡易のものだ)に向かった。
見ていると、ケトルと茶器を準備している。わざわざ自分で湯を沸かして、茶を淹れる気らしい。
「……こういう時ばっかり職権乱用しやがって。この、馬鹿泉」
舌打ちしながらベッドのそばのクローゼットに向き直り、ハンガーを探す。
見つけたハンガーに上着を掛け、寝間着を取り出した後ろで、古泉が小首をかしげる気配がある。
「……よろしいんですか?」
僕を追い出さなくて、という声を無視して、俺は着替えを続行した。
「よろしいもなにも。……自分には幕僚総長の業務予定について強制できる権限がありませんから」
好きにすればいいさ。俺は寝る。
「……ありがとうございます」
礼を言われる筋合いなんかない。階級章を外さない限り、お前は上官で俺は部下だぞ。逆えるだけの権限がないだけだ。
着替え終わってベッドに寝転がりながら俺が言うと、古泉は苦笑するような声で、でも上官が部下に感謝してはいけないという軍規もありません、と屁理屈をこねた。
やがて、茶を手に古泉がやってくる。熱いですからお気を付けて、と手渡されたカップは、どうやら緑茶らしい。このバカ、緑茶はこんな熱湯で淹れたら味が悪くなるんだぞ。朝比奈さんの受け売りだが。
……喉まで出かかったそのツッコミを、受け取った苦味過多な熱い茶と一緒に黙って飲み下す。
ちびちび飲んで、空になったカップを返すと、古泉がベッドの脇に椅子を引っ張ってきながら、いたずらっぽい笑顔で言った。
「眠るまで、手を握っていましょうか?」
「調子に乗るな」
ベッドに潜り込みながら一蹴するが、古泉の手が勝手に俺の手を捕まえる。
「……こら」
布団の中から睨み上げるが、古泉はどこ吹く風という顔で椅子に座った。
「じゃあ命令です。……返事は?作戦参謀」
じゃあ、じゃねえ。そのいい笑顔をやめろ。その二つのツッコミを飲み下して、俺は溜息をついて目を閉じた。つないだ手が、温かい。
「……ご命令とあらば」
俺には、逆らう権限がないからな。