よい習慣のための日常的努力

(射手座で他言語文化圏出身で年下な古泉:設定by信江さん)



 げに恐ろしきは習慣、という言葉を何かと実感する昨今である。
 一体何をそんなに恐ろしい習慣を身につけたのかというと、仕事上がりに上官の所に寄って、都合さえ合えば一緒に飯を食ったりあまつさえその上官宅に入り浸ってコーヒーによる歓待を受けたり、もっとエスカレートするとそのまま泊まっていったりする。これが日常茶飯事になって、もはや疑問も違和感も抱かなくなってきていることである。
「はい、どうぞ」
 その上官殿は今日も変わらぬ恭しい態度で俺にコーヒーが入ったマグカップを差し出した。
「おう、サンキュ」
 そして俺は上官を相手に、まったく恐縮せずにソファにふんぞり返ってそれを受け取る。
 ああ、げに恐ろしきは習慣。もし仕事中にうっかり癖で今みたいな態度を取ってそれを目撃でもされようものなら、場合によっちゃ軍法会議直行コースだぜ。
 まあ今はプライベートだし、余人の目もない。ついでに言えばこの上官殿は士官学校時代の同期で、寮でも同室だった。気心の知れた相手なのだ。仕事中とプライベートで多少立場が逆転していようと、お互いが納得していて公私混同しない限りお叱りを受けるいわれもないわけだ。
 まあいい年した野郎が頻繁に飯を食ったり泊まったりする相手が決まっていてそれが学生時代の同期(しかも同性)というのはある意味ツッコミどころかもしれんが、その辺については察して欲しい。色々と。


 まあそんなことより、だ。
「……」
 俺は隣に座った優男、いや上官殿、もとい古泉をじっと見た(こいつが向かいにも椅子があるのになぜわざわざ俺の隣に掛けているのかについては、やはり察するべき事象であり突っ込んではいけない)。
 当然ながらすぐ側にいる古泉は俺の視線に気づく。
「どうしました?」
「いや。……お前もいつまでたっても敬語だなーと思って」
「……ああ」
 古泉は自分の分のマグカップを両手で持ちながら、俺の言葉に得心がいった顔をする。
「もうすっかり癖のようなものですからね」
 そう言って、カップに口をつけた。
 慣れ親しんではや数年、俺がとっくの昔に打ち解けてタメ口だというのに、こいつは未だにこの丁寧なしゃべりと柔らかい物腰を崩さない。
 士官学校時代はよほどの変人かよほどのお坊ちゃんかだと噂されてたのをよく聞いた(もっともそれは主に同期以上の男子の間でのことで、女子の間ではもう少し違った評価だったようだがな)。
 まあ、実際の所は。
「言葉覚えたてで崩したしゃべり方ができないからって、じゃあ敬語キャラで、でよくごり押しできたよなあ」
「あはは。……疑問を覚える者もいるにはいたようですがね。徹底して元からのキャラだと印象づけるべく努めましたから」
 そう、何かと特殊な背景事情を抱えるこいつだが、その最たるもののひとつに、出身詐称、がある。
 こいつはこの星系の生まれではなく、育ちもまたこの星系ではない。そこは使っている言語も違えば社会通念も習俗もこことは微妙に違う場所だったわけで。
 ……人間慣れきったら最後、コーヒーの味がいつもと違うだけでも違和感がちくちくと追いかけてくるものだというのに、それまで慣れ親しんだ環境をきれいさっぱり捨て去った生活によく耐えてきたものだ。
 しかも慣れていないと周囲に明かせるならまだしも、こいつは異境の寮生活の中で一人、24時間年中無休で慣れているふりをしなければならなかった。事前に徹底的に言葉と習慣を叩き込まれたとはいえ、だ。
「まあ、今となっては笑い話みたいなものですがね、あの頃のことは。それに、あなたは随分とフォローしてくださっていたでしょう?」
 ウインクしながら言うな。俺がお前の出自を知ったのは積極的に打ち明けられたからじゃなく成り行きだし、どのみち大したことはしちゃいない。いや、できなかった。
「でも、おかげでかなり楽を出来ました」
 そう言って、古泉は特に悲壮感もなくへらへらと笑う。
 これで笑顔がやたらと鉄壁なら無理をしている可能性を疑うところだが、そんな風にも見えん。それが分かるくらいにはこの男に慣れ親しんでしまっているわけで。
 そう、慣れ親しんでいるのだ。俺もこいつも。
「ふん。……ついでにこっちの言葉にもかなり慣れきってるだろ。仕事中にたまに敬語が抜ける時もあるって聞いたぞ」
 マグカップの中身を口に含みながら俺は言った。苦い。
 こいつもいい加減俺の好みを覚えたようで、コーヒー含むあらゆる飲み物を淹れる際は余計なものは何も混入させないようになった。これも習慣と教育の賜物である(俺は別にブラックコーヒーを愛してやまないわけじゃないが、古泉に砂糖とミルクの調節を任せると嫌がらせのように甘い液体が出来あがるのだ。俺は甘党にはなれそうもない)。
「どこで聞いてくるんですかそんなこと……」
「勝手に耳に入ってくるんだよ」
 お前は自分で思ってる以上に人気者だからな。
「それ、ただ単に上官の言動は目に付くというだけの話じゃありませんか?」
 それはギャグで言っているのか。それだけなわけないだろうが。昔からあれだけ女子に騒がれてるくせに、認めないのもイヤミだぞ。
「あなたは僕を過大評価しすぎなんです。人気で言ったらあなたの方が」
「そんなことはどーでもいいんだよ。なんでそっちに話が行くんだ」
「……僕がイヤミならあなたは往生際が悪いです」
 古泉は怯みながらもそんなことを言う。ええい、一言多い。往生際の悪さもお前の方が上だわい。
 俺が取り合わずに無言で睨むと、今度は盛大に溜息をつきやがった。生意気な。
「……ええまあ、部下などには、時々は」
 奴はすぐに姿勢を正すと、マグカップをテーブルに置いて俺に向き直った。
「しかし敬語が抜けると言っても、本当にたまに一言二言程度ですよ。今のキャラ自体を崩すつもりはこれまでもこれからもありませんし。僕の出自について万が一にでも疑問を持たれては困りますからね。……僕が今も敬語を使っているの、そんなに気になるんですか?」
「……別に」
 まあ、仕事中には言葉遣いを崩せるのに自分の部屋でオフの時には常にきっちり敬語ってのはどうなんだよとは思うがな。
 俺がそう言って苦いコーヒーをあおると、古泉がなんとも言えない顔で黙り込んだ。
「……」
「なんだよ」
「いえ……つまり、僕の部下に妬いて痛!」
「違う!」
 照れとニヤケの混ざった顔で言った古泉に、俺は反射的にカップをテーブルに置き、代わりにテーブルに置かれていたものを引っつかんで振り下ろしていた。
 すぱん、となかなか軽快ないい音が、さして広くもない室内に響く。
「丸めた新聞で叩かないでください……」
 俺が新聞紙を放り出す横で、古泉が涙目で頭を押さえている。
 ふん、音は派手だったがそんなにきつく叩いてないぞ。
「……俺はなあ、ただ……まあ、別に、いいけどな。お前がいいならそれで」
 今でも無理して敬語キャラやってるんだったら気詰まりなんじゃないかと思っただけだし。
 コトリと音がして(奴もカップをテーブルに置いたんだろう)、そっぽを向いて言った俺の手に古泉が触れるのを感じる。
「……先ほども言ったようにもう癖のようなものですからね。あなたが心配するようなことは、ないんです」
 違う、誤解するなというに。なんだその拗ねた子供をあやすような笑顔は。
「ただ、目下相手なら崩しやすいと言いますか、僕のキャラ的に。それに、故郷にいた頃は年上や目上にはラフな口を利くものではないと厳しくしつけられました、し……」
 ぺらぺらと流暢に回っていた古泉の口の動きが、急に失速する。
 俺は逆に、思わず古泉を振り返った。
「…………」
「…………」
 そのまま、二人して間抜けにお互いを見つめ合う。
 目が合った瞬間は『しまった』だった古泉の表情が、『どうしよう』に変わった。そこからしばしの葛藤を経て、やがて『叱られる覚悟を完了した子供』に行き着く。
 そこまでを見守った俺は、ようやく口を開いた。
「……おい」
「……はい」
 古泉は、いつの間にやら両手を膝の上に揃えて俯いている。おいおい、マジで叱られる子供かよお前は。
 いやそんなことはどうでもよろしい。
「お前と俺は同期で、今は仕事上の立場はお前の方が上のはずだよな?」
「…………はい」
 俯いたまま蚊の鳴くような声で従順に返事をよこす古泉をまじまじと見る。
 こいつの故郷がここよりもはるかに上下関係にうるさく、特に年長者は敬うべしという風潮が根強い社会だったというのは知っている。
 そんな社会で育ったこいつが、目下には言葉を崩せると言いながら、仕事上は目下でプライベートでは同輩のはずの俺を相手に決して言葉を崩さない。それはつまり理屈で考えて。
「……なるほど。もひとつおまけで年齢詐称も、ってか」
「………………はい」
 お前は『はい』しか言えんのか。
「……っ、すみません。その、明かすタイミングを逸してしまったと言いますか……」
 俺の言葉に古泉は弾かれたように顔を上げた。その顔はやっぱり叱られてる子供みたいだ。
 ……やれやれ。そんな情けない顔するなよ。お前のファンが見たら泣くぞ。
 俺は体勢を変えてソファの背に頬杖をつくと、口を開いた。
「ま、そんなこったろうと思ってたぜ。お前お子様舌だし」
 両手を膝の上に揃えた行儀の良い姿勢を崩さないまま、古泉が目を剥く。
「……ちょ、よ、よりによってそこで納得するんですか!?」
 えー、だって、なあ。
「……にんじん嫌い」
「う」
 古泉が怯んだ。
「ピーマン嫌い。セロリ嫌い。あとグリーンピースもダメ」
 俺はまったく構わず指折り数えて挙げていく。
「うう」
 古泉がでかい図体をさらに縮め、ついでに猫背になってきた。
「というか基本的に野菜嫌いだよな。そしてハンバーグとかオムライスとかカレーとか、子供が喜ぶような飯が好きだし」
「ううう」
「飲み物もミルクと砂糖大量に入れるし。ていうか甘いもの大好きだし。好きなもんしか食わないし」
「うううう」
 もはや完全に、花が終わってうなだれるひまわり状態でうなり続ける古泉。
 俺の苦労が分かっていただけるだろうか。こいつ本当に子供みたいな偏食なんだぜ。嫌いなものが出るとさりげなく皿からよけるし。言っても屁理屈こねて食おうとしないし。
 しかもその屁理屈のこね方だけは、もともとの口の上手さにプラスして年食った分だけの磨きがかかってるときてやがる。お前が年の功を積むべきなのはそこじゃないと心から言いたい。
 と、その時うなだれきっていた古泉ががばっと顔を上げた。
「……し、しかしそこを根拠に持ち出すのはどうかと思います。幼児と大人くらい離れているならともかく、僕とあなたくらいの年の近さでは、食べ物の好みと年齢の間に相関性なんて見いだせないはずでしょう」
 さっそく出たよ屁理屈。だが俺にはそよ風ほども効かん。
「論点がすり替わっとる。結論にたどり着くための根拠が間違ってたとしても、お前が年下でお子様舌の偏食くんなのはどのみち変わらない事実なんだろうが」
「……ううううう」
 俺の一言で奴はあえなく撃沈し、うなだれくんに逆戻りした。
 いやあ慣れってのは恐ろしいね。懲りずに屁理屈を繰り返すこいつもたいがいだが、飽きずにツッコミを入れてやる俺もたいがいだ。
 俺はうなだれくんのきれいなつむじを見下ろしながら、溜息をついた。
「古泉」
 言って、頬杖を解き、手を伸ばして頭に置く。くしゃくしゃとなで回してやると、奴は「わっ」と小さく声を上げた。が、おとなしくされるがままになっている。
 相変わらず指通りのいい髪だ。血統書付きの猫でも撫でてるような気分になる。そのままなで続けていると、古泉が俯きながらぽつりと言った。
「……すみません」
「……なんで謝るんだよ、バーカ」
 予想はしてたさ。お前のプロフィールにまだなんか隠し球があるんじゃないか、くらいのことは。
 お前の立場から言って、俺に言えない機密なんか山ほどありそうだしな。
「こちとらそれも織り込み済みでお前に付き合ってるんだぜ。見くびるなよ」
 ああ、ただし偏食についてはただちに改めるべきだ。健康長寿の秘訣はバランスよくなんでも食うことと適量を守ること、これを習慣づけることだぜ。若いうちは無理できるだろうがな、お前の食い方だとある日突然ガタが来そうで俺の心臓によろしくない。
「……」
 いつの間にか、古泉がぽかんとした顔で俺を見ている。まじまじと見て、そして情けなく微笑んだ。
「……なんだか、あなたには一生敵わない気がします」
「そりゃそうだろ。俺の方が年上だからな」
 そう言うと、古泉は吹き出した。
「……それもそうですね」
「せいぜい俺よりあとに生まれたのが不運と思って年長者の意見は尊重しろ。好き嫌いと超過労働を控えてちゃんと健康管理しなさい」
「前向きに、善処します」
 古泉はそう言うと、ゆっくり身を乗り出し、俺の肩に頭を乗せた。子供か小動物にでもなったみたいに、ぐりぐりと額を擦りつけてくる。
 おまえな、そこは返事だけでも素直にはいって言えよ。返事だけいいのはもっとダメだけど。
「つまりは、はいと言おうと言うまいと同じことじゃないですか」
「かわいくねえな。ならこれは命令だからな。違反したら罰ゲームだぞ。ハルヒの前で5分以上敬語なしでしゃべること、とかな」
「無茶言わないでくださいよ」
 声に苦笑が混じる。
 無茶だから抑止力になるんだろうが。よし、明日から嫌いなもの残したらマジでそれ罰ゲームな。
「やめてください、本当に無理ですから」
 そもそも飯を残さず食えばいいだけの話だろうが。それにそんなにハルヒにタメ口きくのは嫌か?
「無理です。僕が涼宮さんにそんなこと出来るわけないじゃないですか。……あなたにも」
「……俺もかよ」
 ハルヒはお前にとっちゃ上官で年上で神様みたいなもんで、条件が重なりすぎてるからいきなりタメ口の対象にするにはちょっとハードル高すぎる、というのはまだ理解できるが。
 古泉は俺の背中に手を回しながら、
「あなたは面白くないかもしれませんが僕は痛!」
「誰が面白いとか面白くないとかの話をした!」
 思わず肩からから古泉の頭を引っぺがす。
「……だから、新聞紙で叩くのはやめてください……」
 俺が素早く拾った新聞紙を振り下ろされた古泉が、涙目で頭を押さえる。
 新聞紙が嫌なら拳が飛ぶぞ。俺も曲がりなりにも訓練を受けたプロだから自重してやったんだ、感謝しやがれ。
「僕はあなたの拳よりも掌の方が好きです。……平手打ちが好きという意味ではないので構えないでください」
 減らず口をたたく古泉に無言でビンタの構えを見せると、おとなしく口をつぐむ。
 思わず、はぁーっと大きな溜息が漏れた。構えていた掌を古泉の頭に乗せ、ヤケクソぎみにわしわしなで回す。
「わ、ちょ、ちょっと……」
「ふん、お前みたいなかわいくない奴はこのくらいでちょうどいい」
「あの、僕は……」
「うるさい」
 言って、古泉の頭を抱き寄せた。そのまま奴の頭を俺の肩に乗せ、ぎゅっと腕を回す。
 頭をぼさぼさにされたまま、古泉は大人しくされるがままになっていた。しばらくして、俺の背中に腕が回るのを感じる。
「……僕は、あなたたちとずっと一緒にいることが望みです。その望みのためなら、何でもできる」
 ぽつりと、古泉が言葉をこぼす。
「あなたに寂しさを感じさせてでも。……今のキャラを貫き通します。身勝手で、ごめんなさい」
 ぎゅ、と回される腕の力が強くなるり、完全に抱きすくめられた。古泉はまた、子供みたいに額を俺の肩に擦りつける。
 ああもう、分かってるさ。お前の敬語キャラは出自を隠すための仮面だ。うかつに外して何かの拍子に経歴を疑われちゃたまらない。そうなったらここにいられるかどうかも危うくなる。そんな風に考えてるんだろ?
 それが分かっててもやっぱりお前に仮面を外してみてほしいと思ったんだから、ただの、俺のわがままなんだよ。 
 俺の言葉に、古泉が伏せていた顔を上げる。
「……あなたの、わがままのひとつすら叶えられない僕ですけれど、それでもあなたが好きです」
 年下でお子様舌で、しかし同い年の敬語キャラという仮面を被り続けなきゃいけないハンサム野郎は、今にも泣きそうな顔のまま、俺に顔を寄せた。
「いいさ別に。……代わりに他のわがままは叶えろよ。……生活習慣は正せ」
 コツリと俺の額に額がぶつかり、どちらからともなく唇を合わせる。
 ……お子様舌野郎の唇からは、さっきまで飲んでいた砂糖とミルクたっぷりのカフェオレの甘い味がした。