眠り姫は夢から覚めて

(『ガーデンティーパーティーに至るまで』後日談)


 ときどき、この庭は果てがない開けた場所にあるんじゃないかと錯覚しそうになる。


 その日の庭の気象設定は晴れ。季節設定が夏だった頃よりだいぶ穏やかになった疑似太陽光が、木々の間を縫って柔らかく下草を照らしている。
 暑すぎず、涼しすぎず、過ごすには非常に気持ちのいい『季節』だ。
 俺は奥の庭の片隅、いつもの東屋のベンチに陣取っていた。
 物騒な思い出もある場所だが、休憩するとなるとここに足が向いちまうのだ。ちょうど眺めも風通しもよくて、居心地がいいしな。下手くそなボードゲームの相手も俺を訪ねてやって来ることだし。
 古泉とは休憩時間になると相も変わらずボードゲームに興じている。俺ばかりが白星を収めるのも相変わらずだ。
「お前、ほんっとうに手加減とか手抜きとかしてないんだろうな?」
 たまりかねてときどき訊ねるが、返ってくる答えはいつも同じだ。
「とんでもない。あなたとの勝負に不誠実に当たるわけがないでしょう」
 とは言うが、これで俺以外の人間とならそれなりの戦績だというんだから信じられん。
 不信の目で見る俺に、奴は決まってこう言うのだ。
「そうですね……強いて言うなら、あなたと向き合うと勝負以上にあなたに気を取られてしまう節はあるかもしれません」
 うるさい流し目で言うな、俺がいつまでもそんな言葉で黙るほど純情だと思ってんのか。(「いつまでも」というからには一度は黙った実績があるのか、というツッコミは無用の長物だ)
「あなたはいつまで経っても擦れない人だと思ってますよ。もちろんいい意味で」
 この調子だ。
「減らず口はいいから、次。お前の番」
 盤面を置いたベンチを指先でコツコツ叩いて促すと、貴公子を絵に描いたような近衛艦隊司令殿は笑って駒をつまみ上げた。
 かたり、と置かれた駒は、一見悪くない手だ。だが、ひとつの攻撃をいなす一方で他の駒への警戒がお留守になっていたりする。どうも視野が狭いというか、こんなんで艦隊運用とか出来るのか。いや、こいつが少なくともこの基地の実質上のトップとしてきっちり回してるのは知ってるんだが。
 勝負は勝負なのでどこがどのようにまずいかはわざわざ指摘しないが、顔に出てたんだろう。古泉が苦笑する。俺はさっさと自分の駒を動かした。
 促すと、今度はすぐに駒を動かさず、じっと黙る。長考らしい。
 長い前髪が落ちるのをかき上げながら、口元に手を当て盤面に視線を落とす。東屋の日陰の中、まつげに縁取られた目元に落ちる影はいっそう濃い。
 以前、打ち解けていなかった頃は間を持たせるための単なる暇潰しだったが、その頃からこうやって考え込むこいつの顔をただ眺める時間は、まあ、嫌いではなかった。
「……仕事、最近も忙しいのか」
 目元に落ちる影が単なる影じゃなく、どうやら疲労をまとわりつかせた隈らしいと気づいて、聞いてみた。
「ええ、まあ。それなりに」
「ちゃんと寝てるか?1人で仕事抱えすぎなんじゃないのか」
 俺の言葉に、古泉はまた苦笑する。
「抱えている、というほどの業務量ではないですよ。……たぶん。長門さんのおかげで楽をさせてもらっています」
 まあ長門が有能な秘書なのには間違いないがな。例えば長門がオーバーワークを警告したとして、こいつは聞かないだろう。長門を軽視しているとかじゃなく、自分が納得いくまでとことん突き詰めるのがこの男の性格だからだ。
「楽をして浮いた時間で前倒しで仕事するんだろ。……ったく」
 こういう奴がトップだからこそ、この基地の守りは堅固だ。こいつが近衛だからこそ、皇女殿下はいつでも安全なんだが。
「よし、んじゃこうしよう。このゲームに勝った方がなんでもひとつ言うことを聞くこと」
 脈絡のない俺の言葉にも打てば響くように古泉は笑う。
「それはそれは。では僕が勝てたら膝枕でもしてもらいましょうかね」
「勝てたらな」
 口の端を吊り上げて笑ってやる。
 俺が勝っても膝枕でもなんでもしてやるよ。察しはいいくせに、どうせストレートに寝ろ休めと言ったって聞きやしないんだろうからな。


* * * * *


「仕返しをね、しようと思うの」
 皇女殿下に執務室に呼び出された俺が出向いて一番、殿下は言った。執務机の上に両肘をついて組んだ手の陰から、笑みの形に引き延ばされた口の端がのぞく。
「……あー、念のために伺っておきますが、どなたへの、何の仕返しですか」
 長い黒髪に縁取られた華やかな顔立ちの中、瞳が銀河を詰め込んだようにきらきら輝いている。それを見て諦めたような心地になりながら、念のために俺は聞いた。
 一度言い出したら聞かない御仁だ、どうせ確認なんか無意味なんだが主に俺の心の準備のために聞いておきたい。以前の捨て鉢な心境とはまた違う、すがすがしい諦めの境地でそんなことを思う。
「決まってるでしょ!」
 殿下は組んでいた手を解いて、ばん!と机に打ち付ける。手が痛みますよ。
「心配無用、あたし身体は丈夫なの。……そんなことより、誕生日の仕返しよ」
「……あー。あーあー、なるほど」
 言われて、俺は手を打った。皇女殿下が成人を迎えた誕生日。当日はもちろん国を挙げての祝賀式典が行われたが、その数日前、本星で行われる式典のためにこの基地を離れる前に、サプライズで内輪のお祝いをやったのだ。
 あの時の皇女の呆気にとられた顔と笑い泣きの顔は、忘れられない。
「しかしあれを企画したのは長門だし……パーティーの席をしつらえたのは朝比奈さんでしょう?」
 と、俺は皇女の傍らに控える2人の女性を見た。
1人は、相変わらず物静かにたたずむ銀縁眼鏡のアンドロイド、長門有希。今の時間帯は古泉司令の秘書として仕事中のはずだが、皇女が自分の権限で呼び出したらしい。今頃仕事量が増えてひいこらしてないかね、あいつ。
 そしてもう1人は、ふわふわと愛らしい容姿に古典的なメイド服がよくお似合いな、朝比奈さん。朝比奈さんももちろん事務官としての仕事があるはずなのだがこれまた皇女の権限で以下略。
 長門と朝比奈さんが仕返しの対象ならここには呼ばないだろうとは思いつつ訊ねると、殿下はかぶりを振った。
「たしかにそうね。でもそもそも有希がサプライズを企画したのは古泉くんが教えたからでしょ?教唆罪よ」
 はあ、さようで。あのサプライズパーティーは俺と古泉にとってもサプライズだったんだけどな。
「というわけで。協力してもらうわ。拒否したら死刑」
 ザッと立ち上がり、こちらに身を乗り出して睨み上げてくる皇女殿下。
 物騒な脅し文句もあったもんだ。この御仁の場合それができるだけの権力を持ってるわけで、シャレにならない。  だがそれがシャレだということはよく分かっている。うちの妹が「一生に一度のお願い!」というフレーズをちゃっかり何度も使うのと同じなのだ。
「死刑は御免被りますね」
 俺が答えると、殿下はとたんに破顔した。
「なら決まりね!じゃあさっそくだけど――」
 嬉々として計画を話し出した殿下を見て、俺は内心やれやれと溜息をつく。以前だったら皇女さまのわがままに付き合わされるなんて冗談じゃねえと思ったのにな。瞳をきらきらさせながら自分の思いつきを実現しようとする彼女の姿を見ているのは、悪くないと思うようになっちまった。
 皇女殿下のサプライズを食らうであろうこの基地の近衛艦隊司令を思う。古泉、お前が見守りたいと思ったのは、こういう彼女の背中なんだろ?


− − − − −


『やっほー、キョンくん元気ー?』
 高官用の通信室のブースに、脳天気な声が響く。
 ディスプレイ越しに手を振る姿に苦笑した。
「おう。そっちはどうだ」
『うん、ここんとこはずっと調子いいよー。散歩もよくしてる』
 高解像度画面の中に映る妹は、確かに顔色も良さそうだ。
 普通の通信設備では回線速度の問題から、こんな鮮明な映像を通信でやりとりしたりしない。高速回線を占有するにもコストはかかるし。その高コストな回線を、妹の顔色をちゃんと確認出来た方が安心出来るだろうということで貸し出してもらった。高速専用回線と高解像度映像通信設備と厳重なセキュリティ、三拍子が揃った高官用の通信ブースをだ。
 一民間人のくせにどんな贅沢だという話だが、相変わらず妹の様子を見に週末になると行ったり来たりをする俺を見かねて古泉が言い出し、さらに殿下の後押し(むしろゴリ押し?)まで加わってしまって断れなかった。むしろもっと早くに提案しなくてすみませんでした、と気遣われる始末だ。
 いやまあ、以前は妹が入院する病院に直接通わなきゃならん事情もあったし、やっぱり直接顔を見られた方が安心するし、それにあの頃は古泉にも皇女にも気を許してなかったから借りを作りたくなかった。それが解消された今、まあ好意からの申し出を断わる強い理由もなく。
『キョンくん毎週のように来ててちょっとうるさかったからちょうどいいよー』
 などとのたまったのは妹だ。兄である俺が遠慮しているというのにこんにゃろめは。
『医師の見立てでも確かに経過は順調なようですよ。でも、油断は禁物です』
 画面の外から涼しげな女性の声が聞こえ、ベッドに座る妹の傍らにお下げ髪の女性がフレームインする。
『もーっ、園生さんすぐそうやって釘刺すー。キョンくんみたい』
「こら、お前な。……すみません森中尉、礼儀のなってない奴で。お守りも楽じゃないでしょう」
 女性は私服姿だが、れっきとした軍人だ。いくつかある古泉司令直属の隊を預かる1人で、森園生中尉。妹が人質に取られた例の事件の後、今後も同じ事がないとも限らないと考えた古泉の指示で、森中尉以下隊員が交代で妹の護衛についてくれているのだ。どんだけ特別扱いなんだよ、と俺は恐縮しきりだが、妹は見ての通りの素だ。まったく。
『いいえ、おかげさまで護衛担当日は楽しく過ごさせてもらっています』
 ディスプレイの向こうでそう言って微笑む彼女は本当に大人である。ありがたい。
『そうそう、その護衛の件でご報告があるんです』
「と、いいますと?」
 画面の向こうで、妹と森中尉が目配せをしあって笑った……気がした。
『ええ。ご存知の通り、現在あなたの妹さんの護衛には私どもの隊から選抜した人員を24時間交替で着けています。ですが、人員を割ける余裕がなくなった場合も想定して常駐の護衛を別に置こうという話になりまして』
「はあ……すみません、よけいな仕事増やして申し訳ないとは思っているんですが」
『ああ、お気に障ったならすみません。そういう意味ではないんです。とにかくそれで、配置された護衛をあなたにも紹介しておこうと思いまして。……さ、こっちへ』
 森さんはそう言うと画面外にいる誰かに向かって手招きした。
 さらりとした長い髪をなびかせた背中が、森さんの隣にフレームインする。思わずぎょっとして、固まった。その後ろ姿に、見覚えがある気がする。いや、まさか。
 だがその葛藤は1秒後、あっさり終わらされた。
『じゃじゃーん』
 という妹ののんきな声とともに振り返りこちらを見た顔は、まぎれもなく。
「あ、朝倉……涼子……」
『そうでーす。涼子ちゃんだよー』
『お久しぶり。元気だったかしら』
 妹に明るく紹介されながら、朝倉が微笑とともに会釈をする。俺は二の句が継げなかった。なんだこれは。
 救いと説明を求めて森中尉を見ると、やや困ったような顔で。
『驚かせてしまったようで申し訳ありません。ご存知の通り、彼女は朝倉涼子。まあかつては色々と経緯はありましたが、我々の指揮下に入りました。あなたも知っての通り非常に優秀ですし、あなたの妹さんの常駐の護衛としては申し分ないかと』
 そ、そりゃあ確かに、朝倉が戦闘型アンドロイドとしていかに優秀かは嫌というほど知っているが、知ってはいるが!
 というかこの件、古泉が知らないわけがない。むしろ決定したのは古泉だろう。なんで言わないんだよ!
「ま、マジなんですか森さん!」
 礼儀も何もかなぐり捨てて、思わず素で叫んでしまった。
『マジなのよ』
 返答をよこしたのは朝倉本人だ。
 と、そこで突然通信画面の横にもうひとつ小さな通信ウィンドウが展開する。

 Ryoko.A>心配しなくても、妹さんに危害を加えたりしないわ。そんな指令は出されてないもの

 そこに現れた文字列に、ぎょっとする。
 妹の病室と繋がっている高解像度画面には妹と森さんと朝倉が相変わらず3人仲良く座っている。朝倉は何も手に持っていない。どんな芸当だと思いかけたところで、こいつはアンドロイドなんだからこのくらいは朝飯前じゃないかと思い直した。長門もこんな感じで手元操作なしに機器を操ったりするじゃないか。

 Ryoko.A>ついでに言うとね、私、いま自律行動を厳しく制限されているの。まあ前歴が前歴だからねえ

 ウィンドウには、高速でさらに文字が羅列されていく。

 Ryoko.A>私の管理権限は皇女殿下が持っていて、その権限をもって近衛艦隊の指揮系統に組み入れ、長門さんが挙動を常時監視することになってるわ。私と長門さんの頭脳が同時にハックされて管理権限を上書きでもされない限り大丈夫じゃない?

「……お前、それでいいのか」
 小さなウィンドウに浮かび上がる文字。

 Ryoko.A>屑鉄より断然マシね

『うん、もっちろん。でも涼子ちゃんが軍人さんだったなんてびっくりだね』
『うふふ、隠していてごめんね』
 その横の高解像度画面の中で、妹と朝倉が笑い合う。妹には、朝倉が例の事件に関与していることは伝えていない。親しくしていた相手だし、知らずに済むならその方がいい。
「そうか。……世話になる」
『いいえ。こちらこそ』
 俺の言葉に、朝倉は相変わらず、愛想がいいような人を食ったような微笑で答えた。そうだな、個人的には思うところはあるが、こいつの能力も仕事に対する姿勢も折り紙付きじゃねえか。仕事として妹を守ってくれるって言うなら、この上なく頼もしいさ。
「森さんも、引き続きお世話になります。……でいいんですよね?」
『ええ』
「うちの妹を、よろしくお願いします。……来週は顔出すからな」
『えー、いいよ。前も言ったけどキョンくんそんなに頻繁に来ることないってー』
 俺の感慨を引き破るように能天気な声で言う妹。おいこら。
『もうそこまで過保護にされる年じゃないしー。涼子ちゃんも園生さんたちもいるからさみしくないしさ。それより、ね、ね』
 なんだよ。また何かおねだりか?
『ちがうよー。そんなんじゃなくて。ね、そんな頻繁に来なくてもいいから、代わりにいつかあたしにもちゃんと紹介してね。キョンくんの大事な人』
 またしても俺は、二の句が継げなかった。とりあえず、赤面した顔を隠すのが精一杯で。
 すまん、妹よ。紹介したらびっくりさせるかもしれんが、まあそのうちな。


− − − − −


「帰りたくない」
 そう告げるのは、いつでも彼の方からだ。
「明日から週末休みだし。外泊届けも出してあるし」
 ぼぞぼそとぶっきらぼうに言い募る彼。
「……妹にも、今週は行かないって知らせてあるから」
 駆け引きも何もない朴訥な語り口に、けれども僕はいつもくらくらする。想う人が、偽りのない気持ちを不器用に差し出してくれているのだ。当たり前だ。
 以前なら、週末の休みに入る前日は、終業と同時にシャトルに乗って妹さんのところへ駆けつけ、休みが終わるギリギリに最終便で戻ってくる。そんな生活をしていた彼が、いつしか妹さんのところへ通うのに間を開けるようになった。毎週それでは身が持たないと僕を含めた周囲が諭したせいもあるし、もっと言えば、僕のせいなのかもしれない。
 初めて彼を僕の部屋に招待して以来、彼がここに訪れた回数はもう両手では数え切れない。
 妹さんのところへとっくに向かっているはずの時間帯に、僕の部屋にいる。
 その意味を考え込まずにはいられない。それはつまり、彼は限定的にとはいえ、離れて暮らす病弱な妹さんとの時間よりも僕との時間を優先してくれたということだ。
 それは言ってみれば、妹さんからたった一人の家族を横取りしてしまっているということではないか。
 その考えが遠慮になり、僕は僕の方から彼を部屋に誘うことも引き留めることもできなくなっていた。
「そういえばお前な、ああいうことは先に言っておけよ」
 部屋のソファでくつろぎながら、彼が言った。
「ああいうこと、といいますと?」
「朝倉だよ朝倉!今日妹と話したらいきなりあいつが新しい護衛だって紹介されて、口から心臓飛び出るかと思ったぞ?」
「……ああ」
 しまった。仕事に追われて、すっかり話した気になっていた。
「申し訳ありません。すでに話した気になって忘れていたんです。他意があったわけでは」
「そりゃ分かってるし別に怒ってもいないけどな。仕事に熱中しすぎてるからそうやってど忘れするんじゃないのか?」
 言葉もない。僕の悪い癖だ。ひとつのことを突き詰め出だすとよそが疎かになる。仕事に根を詰めすぎて、彼へのケアを忘れてしまった。
「すみません……」
「だから怒ってないっての」
 しょげかえった僕の様子を見てか、彼は念を押すように言った。
「……それよか、そんなになるほど仕事に根詰めてるなら、もう休めよ」
 疲れてるだろ、そう言って、彼は僕の髪を梳くように撫でてくる。
「そうですね……そうします」
 されるに任せながら、目を閉じる。髪に触れては梳いてゆく彼の手の感触が、ひどく暖かく感じられる。きっと妹さんのこともこんな風に無造作に優しく頭を撫でるのだろう。
 あなたのお兄さんを、今だけは独り占めにさせてほしい。そしてできるなら、僕をねぎらう温かい手に同じように温かさを返したい。
 「帰りたくない」と言ってくれる彼が、きっと望んでいる言葉を。言ってしまえば彼を縛ることになるのではないかと思っていた、言葉を。
 髪を撫で続ける彼の手にそっと手を重ねると、僕は言った。
「……ねえ、帰らないでいてくれますか?」
 目を開くと、はにかむように微笑む彼がいる。「今さらだ」と言いながら僕の額にキスをくれた。


− − − − −


「あたしね、ずっと迷ってたの。この人事」
 わたしのマスターである涼宮ハルヒ皇女殿下は、わたしに背を向けたままそう告げた。彼女の向かう先には、このコロニー最大の空間であり大規模な環境構築が為された庭がある。季節設定:夏を過ぎたが庭はまだ緑を保ち、開花する花々に恵まれていた。
 恐らくは緑の風景を目に映しながら、私のマスターは言葉を継ぐ。
「たぶんね、一石二鳥ではあるのよ。キョンにとっても、古泉くんにとってもメリットはある。キョンはそりゃ、職種的には今の部署の方が合ってるんだろうけど、何かにつけてお召しを受けて職場を抜けるもんだからいまだにちょっと浮いてるらしいし。それを解消出来る。古泉くんも、あの通りの仕事の虫だから、誰か身分差を気にしないで健康管理についてびしっと言ってやれる人がついてた方がいいのよ。キョンならその点は間違いないと思うし」
 そこで一度、彼女は間を置いた。窓の外からやって来る光を受けて逆光になる皇女殿下の後ろ姿はくっきりと浮かび上がる。
「……っていう理屈をこねて、それを押しつけるのなんて簡単よ。あたしから言えば、二人とも反論も出来ないわ。でも、だからこそ、それをしちゃっていいのかって思ってたの。特にキョンは、最初『それがお前のためだ』って理屈を押しつけられて、ここに来たんだもの」
 そう言うと、彼女は顔をうつむけたようだった。
「でもねえ、だからって何もしないなら、それって優しい人のふりをした逃げじゃないかしら」
 それは疑問系にも思えたが、声のトーンと文脈から返答を期待しての言葉ではないと判断し、わたしは引き続き沈黙を保った。
「あたしはね、たぶん自分の地位が持ってる力に怯えてた。あたしのひとことが簡単に誰かの人生を曲げる、その責任の重さに」
 でもあたし、もう自分に負わされる責任に怯える子供じゃないわ。
 彼女はそう言うと、顔を上げた。
「成人の誕生日、迎えちゃったしね。自分の言ったことくらい責任を取れる。古泉くんとキョンだけじゃ、この答えは出せないの。誰かが『これが答えよ』って提示してやんなきゃ。例えそれが押しつけになったって。それがあたしの役目なのよ」
 光の中で、シルエットが動く。
「だからあたしの責任と権限において、命じるわ」
 逆光の中振り返った彼女は、笑顔だった。逆光の暗さの中にあっても、日差しにも負けないまばゆさを見る者に印象づけるであろう笑顔。そう、これが、わたしのマスター。


* * * * *


 ときどき、この庭は果てがない開けた場所にあるんじゃないかと錯覚しそうになる。
 こんな晴れた、風の気持ちいい日は。
 もちろん果てはちゃんとあって、それは壁と天井と地面、という形で存在している。ここは本当は宇宙に浮かぶ閉鎖空間だ。
「ほれ、さっさと横になれ」  
 ゲームはあっさり俺の勝利で終わり、結局古泉のお望みでもある「膝枕でもなんでもしてやるから少し休め」が実行されることと相成ったわけだが。
 さっきから気前よく膝を叩いてここに頭を乗せろと示してやってるというのに、古泉はなぜかもじもじとはにかんでなかなか身体を横たえようとしない。
 なんだよ。人がせっかく大盤振る舞いのサービスをだな。もしかしてあれか?ベンチに寝っ転がって昼寝はハードル高いか?自分が気にしないからと思ってついさくさく話を進めちまったが、ときどきあるんだよなあ、こう、古泉の育ちの良さを再確認してカルチャーギャップを味わうことが。
「ええと、そうではありません。訓練などで野営も経験してますし、ベンチに寝そべるくらいはどうとでも。……そうではなくて、膝枕をしていただくなんて初めてですし、その、いいのかなと。こんな昼間から」
 昼間からって。今ふたたびのカルチャーギャップ。お前の中で膝枕はどんだけいかがわしい行為に分類されてるんだ。普通に親子兄弟でもやるし膝枕で昼寝とかありがちだろうよ。……だよな?こういちいちかしこまられると、俺の感覚の方がおかしいのかという気分になってくる。いいや、別にどっちがおかしいとかそういう話じゃないが。
「いいから、貴重な時間をこれ以上もじもじに割くな。少しでも寝るのに費やせ。ほら」
 俺はたまらず、古泉の首根っこを掴んで無理やり俺の方に抱き寄せるようにして寝そべらせた。おっかなびっくり、ゆっくりと古泉の頭が俺の腿に触れる。
「……ちゃんと頭乗せろよ。力抜け」
 寝ながらまだかしこまっているらしい古泉の頭をぐいぐい膝に押しつけてやると、ようやく身体の力を抜いてリラックスしたようだった。腿に掛かる重みが増して、なんだか妙にくすぐったいようなむずがゆいような気分になる。
 よく考えたら、俺だってまともに人に膝枕なんぞというものをしてやるのは子供の頃妹に乞われて以来のことだ。面映ゆいことこの上ない。古泉がもじもじとかしこまっていたのもなんだか分かる気がした。
 そっと、髪を梳いてみる。やわらかい。古泉はされるがまま、うっとりと目を閉じた。
「……気持ちいいです」
 そうかい。そのまま寝ちまえ。目覚ましが必要なら、起こしてやるから。
 ゆっくりゆっくり、髪を梳いているうちに、すうすうと寝息らしきものが聞こえてきた。
 見下ろせば、貴公子さまは子供のような顔で寝入っている。寝顔はかわいいもんだなあ。
 ああ、膝がぬくい。俺もなんだか眠くなってきた。
 暑すぎず涼しすぎずのこの気候設定もいけない。風が気持ちよくて、こんな日に昼寝したくならない奴なんかいないだろう。ちょっとだけ、ちょっとだけ……。


 ときどき、この庭は果てがない開けた場所にあるんじゃないかと錯覚しそうになる。
 こんな風に何も考えず幸せな気分でまどろむとき。きっと本当に果てのない開けた場所はこの庭じゃない。俺の心の中が、そうなんだ。


 ピピピ、というアラーム音に、はっと我にかえった。
「あ、やべ……思いっきり寝てた」
 膝の上で、古泉も目覚める気配がある。
 というかアラームなんてセットしたっけか。と思い見回すと、通信機の受信アラームだった。手にとって通話をオンにすると、小さな投影ディスプレイが宙に現れ、そこに長門が映し出される。
 長門は挨拶もそこそこにいつもの無表情で小首を傾げると、
『……お邪魔だった?』
 開口一番がそれか!
 思わずさっと顔が熱くなる。いやいや長門、お前なりの気遣いなのか茶目っ気なのかは分からんが、いたたまれないのであんまりそういう話題に持ってかないでほしいというか俺たちの仲は一応公表してない事柄なのでつつくのはやめなさいというか。ああ、膝の上の古泉も若干顔が赤い気がする。今の聞こえてたな。
 銀縁眼鏡のアンドロイド娘はこちらの反応に面白がるでもなくいつも通り温度の低い声で用件を告げた。
『皇女殿下より要請。お茶会を催すため、表の庭に集合されたし』
「……おう」
 打ち合わせ通りだ。
 聞こえただろ、と俺は古泉の頭を軽く叩く。さっきまで眠り姫のようによく寝てたというのに、軍人らしくもうすっかり目が覚めて状況も把握しているらしい。奴は寝ぼけた様子もなく「名残惜しいですね」などとのたまいながら起き上がった。
 そうか、今のうちに惜しんどけ。どうせもうすぐ惜しむヒマもなくなる。
 これから表の庭で皇女主催のサプライズバースデーパーティーが待ってるんだからな。サプライズ人事発表のおまけ付きだ。今日付で俺は司令部に異動して古泉司令付きの雑用係だとよ。とんだ誕生日プレゼントもあったもんだぜ。
 仕事に追われてたせいか知らんが今日までお前の口から今日が誕生日だという話題がとんと出なかった罰ゲームだ。口から心臓飛び出るほど驚くといい。