懺悔は誰がために
(古泉がキョンに「言いなさい」と命令する場面を頑張って考えてみる)
燃えるようなオレンジの中、俺はたたずむ。
目の前には前時代的なでかいブラウン管モニターとパソコンが置かれ、黒い画面に白い文字が出力されていた。
読み返すまでもない。長門からのメッセージだ。
緊急脱出プログラムを起動するならエンターを、起動しないならそれ以外を押せ。
ready?
その文字列の隣で、カーソルが点滅を続けている。
俺は微動だにしないで画面を見つめていた。金縛りにあったように指ひとつ動かせない。
あの時俺は迷うことなくエンターを押した。もうこれは振り切った世界でのできごとであり、今さら追体験することなどないと思っていたのに。
「おや」
背後から、声がする。
「往生際が悪いことですね。振り切った?あなたが今こうしてここにいること自体が、振り切れてなどいない証拠のように思えますが」
俺は相変わらず固まったまま動けない。振り返ることも、声を上げて反論することも出来なかった。
「こうして選択の瞬間に立ち戻って、別の選択肢を選んでみたい誘惑に駆られているのでしょう?」
背後の声が、優しく、ねっとりとささやく。
「いいじゃないですか。試しに選んでみればいい。……ほら、手を上げて。キーを押すだけです。難しい作業じゃない」
声が俺の背中を優しくなでさすり、手を取ってキーボードの上に導こうとするかのように、絡みつく。
嫌だ、違う。俺は、俺は選んでみたいなんて思っていない。
しかし、声に操られるように腕は持ち上がる。まるでしびれてしまったように感覚の無い腕が、まるで言うことを聞かずにのろのろと動く。俺はなんとかそれを阻止したくて、腕に力を込めようとするが、どうしても感覚が戻ってこない。
違う、やめろ、違う。
頭を振って拒否したいのに、それすら出来ない。
懸命に力を込めようとしても込めようとしても、腕には力が入らなかった。
「……ふうん。そんなに、嫌ですか?」
さっきまで甘いばかりだった声に、不機嫌の苦みが混じる。
それと同時に、勝手に動く俺の腕はぴたりと止まった。宙に静止したまま、今度はどうやっても動かない。
嫌に決まってる。お前は俺が選んだものを無理矢理変えさせるつもりか?
「無理矢理にでも、変えたいと願っている者がいるかもしれませんよ?」
吐息を含んだ声が、笑う。
「例えば――選ばれなかった世界の人間が、ね」
ぞわりと、全身に鳥肌が立つ。
「お前……」
それまでどうやっても動かなかった口が、簡単に動いた。出てきた声は、我ながらなんてひどいしわがれ声だろう。
途端、だん、と頭に衝撃を感じ、次に顔や腕や胸にも衝撃がやってくる。
何が何だか分からないままに、衝撃と痛みで何も言えない俺の上から、睥睨するような声が降ってきた。
「切り捨てていったあなたにとってはもうどうでもいい世界かもしれませんが、僕たちにとっては唯一の世界です」
その声を聞きながら、俺は自分が頭を踏み倒されて、机に頭から突っ込んだのだということを、じわじわと理解する。
「選ばれずに切り捨てられた者の気持ちが分かりますか?僕たちにだってそれぞれに抱いていた思いも未来もあった。それをあなたが」
俺の頭に乗せられたままの足が、ぐり、と力を込めてひねられる。
「踏みにじった。……こんな風に」
うめき声すら上げられずに、俺は荷重を頭に受け止める。
重い。痛い。でも重くて当たり前なのだ。人ひとり分の体重だ。人ひとりが生きていることの重さだ。
「言いなさい」
俺を踏む足にますます体重が掛けられ、頭蓋骨がみしりと音を立てた気がした。
痛い。痛い痛い。やめろ。だが足はますます加重を増すばかりだ。
「少しでも罪悪感や後悔を感じているなら。僕たちを、選び直せばいい。……言って、選ぶと」
上から降ってくる声は、冷たく俺に降りかかる。傲然とした声なのに、どこかすがるような響きがある。
ああ、でもお前にそうさせているのはきっと。
「違う、バカ、違う。……選び直すなんて出来るか」
踏まれながら絞り出した声はやっぱりひどい声だった。
「なぜ?僕たちのもとに心を残しているくせに」
またぐいぐいと頭に体重が掛かる。痛い。だがこれは、俺こそが受けるべき痛みだ。
なぜだと?言うまでもないことだろうが。
「俺はやり直しの利かない二者択一を選んだんだ。それについて今さらうだうだするのは、どっちの選択肢に対しても裏切りだ」
せめて出来るのは、選んだ選択肢を貫き通すことだけじゃねえか。両方ともなんて都合のいい選択肢はないんだ。俺の気まぐれで二つの間をふらふらすることだけは、あっちゃならない。
「だから……」
机の端を掴むようにして手をつき、力を込める。頭にかかったこいつの体重は重い。それでも、力を込める。込める。首と腕の筋肉がバカになりそうに痛んだが、構ってられるか。
そこだけじゃない、背筋も、踏ん張る足も全力で痛い。こんなに全身の筋肉を酷使したことなんてない。だがやらなければならない。
ぐぐ、と震えながら俺の体は机の天板から離れ始めた。
「だから、な。言えというなら言ってやる。何度聞かれようと同じことだ」
自分の選択がどれほど重くのしかかったとしても、顔を上げてなきゃならないんだよ。
「俺は俺の日常が楽しかった!当たり前のことを聞くんじゃねえ!」
腕を突っ張り、一気に顔を上げて振り仰ぐ。
詰め襟の制服を着た古泉が、そこにいる。古泉は俺を無表情に見下ろしていたが、俺から足をどけるとふっと微笑んだ。
「それならそうと、早く言えばいいのに」
放り出されるように唐突に、目が覚めた。
俺は何が起こったか分からずしばらく天井を見つめたまま固まり続ける。
カーテンの向こうの世界はもう明るい。首をひねって時計を見ると、朝と言うには遅く、昼と言うには早い、そんな時刻になっていた。
「……なんつー、夢、見ちまったんだ……」
じわじわと現実が頭に染みてくると、溜息と共に、声が漏れる。
顔に手を当てて、俺は笑った。
「フロイト先生も爆笑だぜ……はは……」
枕元の携帯を引っ張り出して、日付を見る。一月三日。
……ここ半月ばかりの間に起こった怒濤のできごとを思い出す。
十二月十八日から二十日にかけて起こった悪夢の世界改変。そこから復帰した二十一日。クリスマスパーティの二十四日二十五日。長門が中河からの告白を受けてちょっとだけドタバタし、年末合宿で行った雪山で遭難し、翌日には年越し推理大会。
さらに翌日、地元に帰ってすぐに、……十二月十八日に跳んで、時空の再構築。
昨日だ。俺は、俺が選んだ今の世界を確定させちまった。だからだろうな、あんな夢を見たのは。……やんなっちまうね。俺も案外感傷的じゃないか。
「しかも古泉ときたか……」
携帯を放り出して寝返りを打ちながら頭を抱える。
雪山の館で奴に十二月十八日のことを話した時、奴は何も言わなかった。改変自体に対して興味深いという感想は述べていたし時間移動にも興味津々のようだったが、自分の上に起こった改変内容については何も言わなかったのだ。
夢に古泉が出てきてあんな役回りを演じたのは、そりゃあフロイト先生にお伺いを立てるまでもなく明白だ。
俺は古泉に、俺の選択を責めるか認めるか、どちらかしてもらいたいんだ。改変の張本人の長門に次いで、一番俺の選択の影響を受けたであろう古泉に。
「……誰が認めても責めても、結局こっちを選ぶくせに」
つまりは自己満足の極致じゃねえか。つぶやいて、もう一度寝返りを打つ。
その時、携帯が鳴った。なんだ?
慌てて手に取ると、古泉からの電話だった。なんだよ、噂をすれば影ってやつか。
考えていた内容が内容だけに、若干ためらってから通話ボタンを押す。
「……はい」
『ああ、起きてらしたんですね。どうも、おはようございます。古泉です』
耳に当てた通話口から、いつも通りの爽やかボイスが聞こえてくる。
「ついさっきまでようやくの寝正月を堪能してたがな。何の用だ。お前は話が長いから手短に言え」
先制攻撃で釘を刺すと、電話口の向こうで声が苦笑する。
『そうですね。では手短に。……例の時空再構築、もう済ませてしまいましたか?』
「…………」
またそれか。この件を話してからの2、3日というもの、こいつはタイムトラベラー願望でもあるのかやたらとしつこく連れて行け連れて行けとうるさかった。鶴屋さんの別荘から帰ってくる道中でもだ。
「その件なら昨日済ませた」
『……やっぱりですか』
なんだよ、まるで俺たちの昨日の行動を知っているかのような口ぶりだな。機関はストーカー集団か?
『そのそしりを受けても致し方ない部分もありますが、情報はないよりあるに越したことはありませんからね。プライベートを侵しすぎない程度の情報収集は行っています。あなたと朝比奈さんが揃って長門さんのお宅を訪問したのち帰ったところまでですよ、こちらで把握しているのは』
やっぱりストーカーかお前は。
『僕個人がストーキング要員を務めることは今のところありませんがね。SOS団内への潜入の方がよほど優先度の高い任務ですし、閉鎖空間への対処もありますから免除されています』
機関は興信所か何かか。澄まし顔で肩をすくめる憎たらしい姿が見えるようだ。古泉はそこで言葉を一旦切り、口調を改めて続ける。
『それにしても行動が早いですね、あなたは。ぜひ連れて行っていただきたかったので残念です』
「面倒ごとをとっとと済ませたかっただけだよ」
『それにしたって、僕の再三の要望を無視しなくてもいいではありませんか』
お前もしつこいな。余計な要員は増やすつもりはなかったんだよ。過去の俺はお前を目撃してないわけだし。
『それについても過去のあなたの目に入らないようにすれば問題ないはずだと申し上げました』
あのなあ、そんなに時間旅行に行きたきゃ朝比奈さん(大)にでも頼んで連れてってもらえ。何度繰り返しても俺はお前を連れてくのはごめんだからな。
『おや、なぜです?』
「お前を、あそこに連れて行ってもしょうがないだろ」
『特に役には立たないでしょうが邪魔もしませんよ』
「……確かにあの場面にお前がいても何の役にも立たんだろうが、自分で言うなよ」
古泉が静かに苦笑する。
『邪魔はしないつもりだったのに、時間再構築の件については、あなたは僕が邪魔で仕方なかったのですね』
「別に邪魔なんて言ってない」
『言ったも同然ですよ。……なぜ?』
なぜも何も、違うと言ってるだろうが。人の話は聞け。
俺は落ち着かず、寝床の中でごろりと寝返りを打った。
『聞いていますよ、ちゃんと。だから疑問でした。あなたは僕の申し出を黙殺することもある人ですが、まず害のない、他愛のないことについてばかりです。重要な案件を無視することも、繰り返しの要請を無碍にすることも、ない。そんなあなたがなぜ、この件に限ってはそれほどまでに頑ななんですか』
どくりと脈がひとつ、大きく打つ。古泉め、さらに落ち着かないことを言ってくれる。
「……別に。お前がついてくるのが鬱陶しかっただけだ」
『鬱陶しかった、ねえ……』
ついでに背に汗がじわりとにじみ出すのも感じる。
なんでこいつはこう追求して欲しくないことに限ってほじくり返して追求しようとするんだ。その探求心はもっと別のことに使え。
『確かに今の僕は我ながらなかなかの鬱陶しさです。そして僕がこれだけ鬱陶しく言い募っているのに、そんな弱い動機で僕の申し出をはねつけ続けるあなたも、なかなかに不自然だ』
脈がいよいよ跳ね出した。口の中が乾く。
古泉の声がゆっくりと、いつにも増して低い。
『あなたが僕を連れて行きたがらなかった理由、本当は別にあるのでしょう?』
脈はいっそう激しくなり、どくどくと耳の中に反響する。
違う。違う、違うバカ。
「お、前が何を言ってるのか分からん。用件がそれだけならな、もう電話切るぞ」
『言いなさい』
掌を返したようなぴしゃりとした声に、俺は思わず肩を震わせた。
まるであの夢の中の古泉のようだ。
だがダメだ、あれは俺の夢の中に収まっていたからまだいいんであって、現実の古泉に、こんな。
「ダメだ、こいずみ、これは」
『言って。あなたは何かを一人で背負っているのでしょう?』
今度はまるで背を優しく叩くように、古泉の声が俺を促す。
ぞわぞわと背筋を走る怖気に、身を任せてしまいたくなって、俺は慌てて頭を振った。
ダメだ、違う、これは俺が自分で背負い続けなきゃいけないんだよ。
また寝返りを打って、身体を丸める。息が苦しくてうまく吸えなかった。
俺はお前をあそこには連れて行きたくなかったし、今も連れて行きたくない。
再構築で、あの改変世界は完全に消えたんだ。超能力と使命を背負わされて時々押しつぶされそうになっていたお前が、解放されて生きていけたかもしれないひとつの可能性と一緒に。
その瞬間にお前を立ち会わせるなんて。何も言わなかったお前が何を思うのか想像しながら、そんなこと出来やしねえ。
でもそれは完全に自己満足だ。お前はついて行きたがったんだから。
……こんなことを白状したら、きっとお前を傷つける。よけいな荷を負わせちまう。
だから、頼むから、懺悔なんかさせないでくれ。
鼻の奥がつんと痛み、瞼の裏が熱くなるのを感じる。うっかりしゃくり上げる声を漏らしてしまって後悔した。古泉に届いてなければいいんだが。
しかし時すでに遅し。俺の沈黙に応じるように黙っていた古泉が、ふっと笑う気配があった。
『もっと早くに、言ってくれればいいのに』
なんだ今のですべてを悟りましたよみたいな口調は。お前はテレパシストか。勝手に俺の内心のつぶやきまで受け取るんじゃねえ。
いいや違う、俺はまだ何も言ってないんだから、奴も何も受け取っていないね。そうだ、古泉が早合点してるだけだ。
早合点野郎が、また優しく俺を促す。
『言いなさい。……僕は、聞きたいです』
俺は、勝手に曇り始めた視界を閉じて、深く長く、溜息をついた。