神様の黄金



 ジーワ、ジーワ、ジーワ。
 俺の息の根もじーわじーわと止めてくれそうな暑苦しさで、セミが鳴いている。気温はすでに絶好調、太陽がぎらぎらと空に踊り、入道雲のひとつも空の端っこに顔を出していそうな気がする。
 夏で、夏休み一歩手前だった。
 すぐそこに中間テストが地獄の口を開いて待ち受けているが、それが終わればこのハイキングコースを登山する毎日を逃れて待望の夏休みがやってくる。
 どうせ今年もまたハルヒに引きずられて西へ東へ大騒ぎなんだろうから、登校のために登山しなくてよい、となっても疲れることにゃ変わりはなさそうだがな。
 とは言っても、今年は朝比奈さんが受験生だから、ちっとは控えめになるのかね。……いや、あいつのことだから勉強会とでも称して何が何でもSOS団を集めたがるかもしれん。
 そんなことをつらつら考えながらのんびりと(この暑いのにきびきび動きたがるようなバイタリティあふれるタイプではないのだ、俺は)旧校舎の階段を上り、3階の廊下に顔を出した俺は、妙なものを発見した。
 いや、ものではないのだが。
 廊下の、うちの部室(正確には文芸部室改めSOS団団室)の前。
 人が座り込んでいた。
 ドアに背を預け、膝を抱えて俯く頭に、黄色いリボンが揺れている。
「……ハルヒ?」


 ジーワ、ジーワ、ジーワ。
 セミの声が、午後の暖まりきった空気をさらに暑苦しく満たす。
「そんなとこで何やってんだお前」
 俺の声に反応して、ハルヒが顔を上げて俺をちらりと見た。
 ……その視線に、思わずぞっとする。あのぎらぎらとした100ワットの目力はどこに投棄してきたと問いただしたくなるような、暗い目だった。
「……鍵開いてないのか?」
 いや、開いてなかったら職員室に鍵を取りに行けばいいだけのことだ。もし鍵がないんだったら蹴破ってでも入ろうとするのがこいつのはずだ。
 こんな風に、悄然と俯いてドアの前に座り込むなんて真似は、間違ってもする奴じゃない。
 ハルヒは答えず、また俯いた。そして、ぽつりと言う。
「……待ってたのよ」
「待ってたって。長門か?」
 本来ここは文芸部の部室だから、文芸部員の長門が鍵を持ってっちまったまま到着が遅れてるのかと思ったが、ハルヒは「違う」と首を振る。
「あんた。……もう、待ちくたびれたわよ。でもまあちゃんと来れたんだから、ひとまず合格ラインってことにしてあげる」
 そう言うと、ハルヒはゆっくりと立ち上がった。もう一度俺を見たその目は、やっぱりいつものハルヒとは違う。
「俺?何のことを言ってるか分からんが、……俺も、鍵なんぞ持ってないぞ」
 喜怒哀楽があからさまで激しいこいつが、はじけるような笑顔でもなく、不機嫌に口をとがらせるでもなく、ただ、愁いに満ちた暗い目をしている。
 俺は、こんなハルヒを知っていた。
 去年の5月。ある日自分がつまらないちっぽけな存在だと感じてしまったと語った時のハルヒだ。だがなんで今さら?
「鍵、ね。まあ鍵を待ってたとも言えるわ」
 ハルヒは静かにそう言って、ドアから離れた。そして、向かいの窓に、もたれかかる。
 だから俺は鍵なんか持ってないって。
 開け放たれた窓からは、風などひとつも入ってこない。だがハルヒは暑さなどどこ吹く風で、窓枠に肘をついて外を眺めている。
「……あたしじゃ、入れてもらえなかった。どれだけノックしてもね。ここへは通してもらえたけど」
 さっきから、ハルヒが何を言っているのか分からない。
「すまん、俺には話がさっぱり見えん。もっとちゃんとわけを……」
「たぶん、あんただけなの。有希もみくるちゃんも待ってるわ」
 何を。俺をか。
「違うわよバカ」
 いや、バカって。だってお前は俺が来るのを待ってたんだろうが。
「そうじゃなくて」
 ハルヒはじれたように俺を振り返った。
「有希もみくるちゃんもあたしも、待ってるの。あんたが」
 その目が、少しだけ強い輝きをともす。
「……連れ戻してくれるのを」
 ……誰を。
 ハルヒはまた、窓の外を向いてしまった。
「あたしはね、うぬぼれじゃなく大事にされてる。事実としてそうなんだって分かる。だからここにも来れた。……でもそれだけよ。あたしには助けを求めてくれないの」
 正直腹立つけど、それ以上に、寂しい。
 そう言って、ハルヒはまた俯く。
 ジーワ、ジーワ。セミの声の暑苦しさがどこか遠かった。
「ねえキョン、あんただってこのままでいいと思わないでしょ。あたしたちは、5人そろって初めてSOS団よ」
 突然、ハルヒがバッと顔を上げて言った。
 だから、何の話をしてるんだ。あたしたちってどのあたしたちだよ。SOS団なら4人だろうが。お前、長門、朝比奈さん、俺……おれ。あれ?ほんとうにそうだったか?
 ハルヒがゆっくりと腕を上げる。すっと指さしたのは、……部室のドア。
「行って」
 まっすぐに俺を見つめて、いや、睨みつけて、ハルヒはシンプルに命令した。
 俺は、部室のドアとハルヒを何度も見比べる。
「……お前にも開けられないようなドアを、俺に開けろってのか?」
「あんたにしか開けられないの。だってあんたが」
 鍵だもの。
 ハルヒがほとんど聞こえるか聞こえないかの小さな声で紡いだ言葉を、俺は唇の動きで知った。
 鍵。鍵。今までに何度も聞かされた。俺が鍵だと。世界の鍵。神様の鍵。誰に一番多く聞かされた?
「行きなさいよ。……助けてあげて。お願い」
 ハルヒの声に背中を押され、ドアノブを掴む。ひねると、簡単にそれは回り、俺は扉を押し開いた。


 ジーワ、ジーワ、ジーワ。ここにも、セミの声は変わらず響いている。
 部室の中は、廊下と変わらずムッと来るような熱気に満たされていた。ボロい木造の旧校舎で空調も何もあったもんじゃないので仕方ないんだが、どうにかならんもんかねこれは。
 その熱気に混ざり、かすかに漂ってくる香り。窓際に飾られた笹の匂いだ。
 今年もハルヒ発案により七夕をやったのだ。今回は前よりも立派な笹を鶴屋さん家の土地から分けてもらって、短冊以外にもあれこれと飾り付けをした。
 そしてメインの短冊も、今年は笹提供の鶴屋さんはもちろん、コンピ研だの谷口やら国木田やら阪中だのといった、不幸にしてSOS団と関わりの深い連中の分が加わったので、非常に賑やかだ。谷口とかは今年こそ彼女だのなんだのと暑苦しく書き殴った短冊を堂々と吊るして、周りから失笑を買っていたな。アホだ。
 開け放たれた窓辺、その賑やかな笹の前に、少年が一人。
 この暑いのに制服をきっちり着こなし涼しげなたたずまいのそいつは、俺が入ってきたのにすぐに気づいて振り返った。
「やあ、どうも」
 やはり涼やかな切れ長の目元が和らぎ、笑みを浮かべている。
「……おう」
 俺は手を上げて挨拶にこたえ、長机に鞄を放り出しながら笹に歩み寄った。
「何見てたんだ。……短冊?」
 奴の隣に立ち、笹を見上げる。今年のはマジで立派だ。そしてこの立派な笹を部室まで運び込む労働を担ったのも俺たちである。
 奴の目の前に吊されていた2枚の短冊を読み上げる。こいつが書いたものだ。
「『世界平和』に『家内安全』ね……お前、実は考えるのめんどくさいだけじゃないだろうな。なんで去年とまるっきり同じなんだよ」
「違いますよ。こう見えても、わりと真剣ですよ、僕は」
「嘘くせえ。……もうちょっとさ、個人的なあれこれを書いても罰は当たらないと思うんだが」
 俺の言葉に、そいつは眉をハの字に下げながら、喉を鳴らして笑った。口元に当てた白い手に巻かれた腕時計のバンドが、ちらちらと光を反射する。
「個人的なあれこれを込めて書いた結果なのですがねえ」
 どのへんがだよ。ハルヒの機嫌ひとつで世界がどうにかなりそうな危うさがあった去年までならともかく。
 俺が目で問うと、奴は手を伸ばして目の前に下がる短冊をそっと手に取った。親指が、奴の乱雑な筆跡をたどる。
「……僕は今の状況がけっこう気に入っています。だから、その「今」を形成する基盤が堅固であれ、という願いを込めてみたのですが」
 俺は思わず呆れて奴の顔を見た。俺より少し高い位置にある、白い横顔。こんな暑苦しい日にシャツのボタンを上まで留めてネクタイもきっちり締めているのに、汗のひとつもかいていないし、顔色を見ても少しものぼせた様子がない。
「……お前は霞でも食いつないで生きてるのか」
 仙人かどうかは分からんが、少なくとも一人だけエアコンの効いた別世界にいそうな顔だぞお前。
 どんだけ悟りの境地にいるんだ、一男子高校生が。谷口並みにとは言わないが、もうちょっと今時の若者らしく近視眼的で即物的な願いのひとつも持てよ。本音を書くのは恥ずかしいので当たり障りのない願い事にしましたと言い訳される方がまだマシだ。
「霞ですか。人類がそんなものを食んで生きていけるようになったら昨今のエネルギー問題とそれに付随する環境問題のいくつかは解消されそうですね」
「アホ」
 一言のもとに切り捨てた俺に、また眉を下げた苦笑いの顔で、喉を鳴らして笑う。まるで溜息みたいな笑い声だと思った。
 奴は短冊から手を離すと、ふいと笹の前を離れた。
 目で追うと、長机まで歩いていき、そのまま椅子を引いて座る。いつもの定位置だ。


「いかがですか、一勝負」
 見ると、一体いつの間にどこから取り出したのか、奴の手にはトランプの束がある。
 やってもいいが、何をやるんだ?ポーカーか?7並べ?それともページワン?ああ、ババ抜きはなしな。二人でやっても最後は読みあいもへったくれもないただの押し付け合いゲーになってちっとも面白くない。
 奴はただ微笑んで、トランプの束を切り始めた。
「いえ、今日は少し趣向を変えましょう」
 俺が向かいの席について続きを促すと、奴は切り終わったトランプの束を長机に置いて、マジシャンか何かのように手を小さく広げて見せた。
「マジシャンですか。まさしくですよ。今日の僕はマジシャンです。これから手品をひとつ披露しますので、トリックを当ててみてください」
 ほほう。いつもの手応えのないゲームよりは面白そうじゃないか。
「ちなみに当てたらなんか出るのか」
 俺が言うと奴は少し考え込み、
「月並みですが、あなたの言うことをなんでもひとつ聞く、というのはどうです?」
 なら勝ったらアイスでもおごってもらうかね。冷たいもんのひとつでもないとやってられん。
「ふふ、いいですよ。ただし、当てられたら、ですが」
 おお、珍しく強気じゃないか。どんな珍妙な手口の手品を披露してくれるつもりか知らないが、とにかく見せてみろ。
「では、まずはお好きなカードを一枚選んでください」
 奴はそう言うと俺の目の前にトランプの束をどんと置いた。
「カードを選んだら僕には見えないように表を確認してくださいね」
 つまりこれはあれか。相手が引いた札を当てる系の、わりと定番のテーブルマジックか。
 俺は無造作に一番上の札を取ると、見られないように素早く確認する。スペードのエース。
 ……奴がなにやら苦笑しているが知ったことか。札を束のまま丸ごと渡してきた以上、こっちが札をとる段階で何か小細工を仕掛けてるとは考えられん。ならわざわざひねくれて札を厳選するのもバカらしいじゃないか。
「あなたらしいですね」
 笑い続ける奴に、カードを伏せて渡す。
 ふん、ここからが本番なんだろうが。とっとと小細工ぶりを披露しろ。
 じっと奴の手元に視線を注ぐ。白い手がトランプの束をたぐり寄せながら、俺から受け取った札を実にさりげなくトランプの束の一番上に置いた。そしてそのカードを束の真ん中に入れる。なるほど。
「はい。これで準備は完了です」
「その状態で一番上の札をめくるとあら不思議、俺の選んだカードが出てきますよ、というわけか」
 そのマジックならタネを知ってるぞ。お前が今束の真ん中に入れたのは俺が選んだカードじゃなくて、そのすぐ下にあったカードだ。そのすり替えテクにより、俺の選んだ札が一番上に残っている。そうだろう?
「アイスもいいが、いま自販機までひとっ走りしてきてジュースをおごってくれるのでもいいぞ」
 勝利を確信した俺に、しかし奴は相変わらずの涼しげな笑顔で応じた。
「さて?その前に、まずは答え合わせといきませんか」
 白い指が、するりとトランプを撫で、一番上の1枚だけをすくい取る。
 ひらりと示されたそれは、……まったく違う札だった。
 目を剥く俺と、苦笑する奴。
 おいおい、なんだよ、俺が知ってるのとはちょっと違うマジックなのか。
 くすくすと、奴の忍び笑いが転がる。札を表にして机の上に置いたまま、トランプの束を切り始める。白い手が慣れた手つきで素早くトランプを切るのを呆気に取られながら見ていると、奴は切り終わった札を揃えて、一番上の1枚を取った。
「はい。あなたが引いたのはこれですね?」
 示された札は、スペードのエース。そうだ。これだ。……っておいおい、今のどうやったんだよ。どこでどう仕込みをしてたのかまったく分らなかったぞ。
「もう1回、もう1回だ」
「いいですよ。いくらでも」
 渡されたトランプの束を今度は自分でよく切って、1枚取る。……また、スペードのエース。
 一瞬このトランプはあの札を除いてスペードのエースだらけなんじゃあるまいなと思って検分したが、普通に4種のマークの1から13までの札と、2枚のジョーカーが揃っている。


「先ほどの話ですが」
 思わずトランプをしげしげと眺めてしまった俺は、その声に顔を跳ね上げた。奴は相変わらず涼しげな笑顔で言葉を紡ぐ。
「例えば、あなたはいつもゲームであっけなく僕に勝ってしまう、それに少なからず退屈を感じているはずです。何でも叶えばいいというものではないし、手に入ればいいというものでもない。ユートピアとディストピアは、紙一重なのですよ」
 いつぞや聞いたようなことを言って、手を出してくる。俺は検分していたトランプをまとめると、そこから札を引き直し(またスペードのエースだ)、奴の手に返した。
 さっきの話っていうのは、短冊に書いた願い事のことか。
「手に入りすぎることで、人は本来の望みとは違う方向へ進んでしまいかねない時もある。僕は、自分の欲を満たすことで「今」を壊したくはありません。そのくらいなら――」
 言葉を切って伏せた目元に、まつげの影が濃い。
 ……発想までは分からんでもないが、それで出てくる結論がストイックすぎてついていけん。
 お前はむしろもっと手に入れることを望んだっていい側じゃないのか。たかだか願い事2つ分すら禁じるほど、怖いのか。触れるものすべてが黄金に変わる力を願って叶ったせいで不幸になったミダス王じゃあるまいし、そう神経質になる必要があるか。
 奴は俺が渡した札を伏せたままトランプの束の中に戻し、切り始める。……目を凝らして手元を見てみるが、やっぱり見切れん。どんな手を使ってるんだ。
「ミダス王ですか。……あるいは、そうなのかも知れません」
 奴は切り終わったトランプの束を長机に置き、一番上をめくった。
「お前がミダス王か。お前は確か、空間限定でけったいな青い巨人を倒すだけの超能力者じゃなかったか?」
 ……予定調和のようにスペードのエースが出る、
 また、溜息に似た笑い声。視線を上げれば、そこには静かな笑みをたたえる奴がいる。
「さて。僕の自己申告によれば、僕は能力を発動出来る条件が整わない限りはただの人、ではありますが……それが真実であるという保証が、あなたのもとにはありますか?」
 またそれか。たまにはその悪趣味な言動をやめてみたらどうだ。
 もう一度、白い指がトランプの束から札をめくる。
 ……スペードのエースが出た。
 二枚に増えたスペードのエースと、奴の顔の間を、俺の視線が二度三度と往復する。何度見直しても、スペードのエースが二枚ある。
 俺をあざ笑うように、指は何度もトランプをめくり、そのたびにスペードのエースは増えていく。さっき普通のトランプだと念入りに確かめたのに。
「とんだ手品師だなお前は。まったくタネが見切れん」
「そう言うあなたはとんだ大物です。少しは警戒してはいかがですか?――今、この次の瞬間に黄金に変えられるのはあなたかも知れないのに」
 ざあ、と、それまで風一つなかった窓の外から突風が吹き込む。
 トランプがばらばらと吹き飛ばされ、部屋中に踊った。その吹き飛ばされていく札も、ひとつひとつ、全部、スペードのエースだ。
 奴は、この突風の中でもまったく平然としていた。平然と、髪を風に乱されることもなく、シャツの袖やネクタイが風をはらむこともなく。まるで、風など吹いていない別世界にいるかのようだ。
「……お前は、そんなことはしないさ」
 俺はと言えば、無様に風に翻弄されるがままだ。髪なんぞあっという間にぐしゃぐしゃだし、いつまでも舞い続けるトランプが時々当たって痛いし、さんざんだ。
「なぜそんなことが言えるんです。……ミダス王は望むと望まざるとに関わらず、触れるすべてに対して力を行使してしまった。食べるものも、着るものも、寝床も、家族さえ。彼は黄金と引き替えに嘆きばかりを得た」
 白い顔が、俯く。流れ落ちた前髪に隠されて、表情がうまく見えない。
「……何でも望みが叶ってしまうというのは、恐ろしいことです」
 口の動きだけが、はっきり見える。この吹き荒れる風の中で、奴の声はまったく風に邪魔されることなく届く。まるでこいつこそがこの風の主と言わんばかりに。
「僕が触れたものが、僕の一時の気まぐれや欲の通りに、変質してしまう。そうなっていないという、保証はない」
 奴が、顔を上げる。ひどい顔だった。愁いと憤りに満ちた、暗い目。
「分かりますか。これはちょっとした恐怖だ。鏡が容赦なく己の姿を映し出すようなものです。見たくない自分の欲すら、映されてしまう。僕の一時の感情すら映して、鏡の中身は姿を変える」
 風は、こいつの心の中そのもののように狭い部屋を暴れ回る。トランプが当たるたびに感じるちくちくとした痛みも、こいつが常に感じているものなのかも知れなかった。
「あなたなんかに、分かるものか」
 ふっと、急に風が消えた。


 気づくと、そこは部室ではなく、俺たちが座っていた椅子も机もトランプもなく、ただの何もない真っ黒な空間に俺たちはたたずんでいた。
 俺の目の前で、奴は両手で顔を覆っている。
「……涼宮さんが、好きでした」
 つぶやきは、小さく、懺悔のような響きだった。
「彼女が感じている孤独に、共鳴した。僕の世界の中心は、ずっと彼女だったんです。だからその通りの世界ができてしまった……彼女の望みを叶えたかったし、彼女が感じる苛立ちや悲しみを取り除いてあげたかった」
 肩が、震えている。俺よりも背が高いはずなのに、ずっと小さく見えた。
「僕がずっと、彼女を守りたかった」
 ……うん、まあな。分かるよ。お前ずっと、任務だからとかじゃなく、お前自身がハルヒを大事にしてたもんな。
「僕はそれでずっとよかったのに、でも、」
 奴はそう言って、顔を覆っていた手を外した。
「あなたが現れた」
 ……やっぱりひどい顔だ。今にも泣き出しそうな顔しやがって。
「あなたに会わなければよかった」
 しゃくり上げるような声で言いながら、奴はまた手で顔を覆った。
「あなたを知らなければ、僕はただ彼女を見守りながら穏やかに過ごしていられたのに」
 子供のような言い草に、俺はつい溜息をついた。
 ああやれやれ、この嘘つきめ。
「本当にそう思ってる奴が、自分を消し去るかよ」
 逆だろ。俺が邪魔なら、俺を消すだろ。お前は、お前だけが消えたんだ。どうしてだ?
 妹にするように、顔を覗き込みながら(と言っても相変わらず顔は手に覆われてまったく見えなかったが)訊ねると、奴は首を何度も横に振った。
「……あなたがそうやって僕にくれる、その優しさが、僕の望みが作り出したものじゃないと、誰が保証してくれますか?あなたを信じられないんです。僕が、よりによって、あなたを」
 そう言いながら、奴はじりじりと後じさる。
「あなたを消したいと思ったことなんてない。でも、僕はいつか、自分の都合通りにあなたやあなたの周りを作り替えてしまうかも知れない。僕の手が勝手にこの世界をミダス王の黄金に変質させてしまうというのなら、」
 肩を落とし、顔を手で覆ったままうなだれた奴は、すすり泣くような声を上げた。
「いっそ、僕が消えたい……」
「…………」
 俺は、どうしたものか、頭をかきながら考える。
 この人の話を聞かないバカの顔を、どうやって上げさせるかを。
 そして考えた結果、手を伸ばして、うなだれ続ける奴の頭に手を置いた。少し長めの色の薄い髪は、見た目通りにさらさらと手触りがいい。ぽん、と軽く叩いて注意を促しながら、俺は口を開いた。
「……あのなあ。世界を改変する能力なんかなくったって人は世界を変えられるんだぜ」
 びく、と俺の手の下で奴の頭がおののく感触。
「ほっといたって世界ってのは変わるんだ。たとえば今この瞬間だって、時間は動き続けてるし、秒針が1秒時を刻むごとに俺たちだって1秒ずつ年を取ってる」
 人の心だって経年変化はするし、人や物事と出会って関わるうちに変わることもある。
 ガキの頃は泣いた赤鬼に涙してた純朴なチビがかわいげもへったくれもない男に育ったとか、平穏無事が一番だと思ってた男がとてつもなくパワフルな同級生のおかげで何が起こるか分からんドタバタな日常もそれなりに悪くないと思うバカになっちまったとか。
「俺みたいな人生たかだか十何年の若造ですら実感してる事実だ。それを無視して変わるなってのも現実をねじ曲げることになるんじゃないかね」
 お前の恐怖を完全に理解したり、取り除いたりしてやることは出来んがな、要はあれだ。世界なんてのはいつも何かしらの出来事や人同士が影響し合って小刻みに変わり続けるもんだろう。お前の願いだけ、この世界から取り除かなきゃならないなんてことは、きっとないんだよ。
「お前がダダ捏ねて引きこもるもんだから、ハルヒまで暗い顔してたぞ。お前、変質させたくないって言いながら一番変質させる方法を取りやがって……」
 弾かれたように、奴が顔を上げる。この野郎、ハルヒの名前出したとたんにそれか。ほんとにハルヒ優先だな。ちょっとムカつくがまあいい。
「お前だってSOS団なんだ。お前が欠けたままじゃなあ、SOS団は、世界は歪みっぱなしだぞ。だから、」
 俺はようやく顔を見せた奴の両肩を力一杯掴んで、目を見つめて言った。
「帰って来いよ、……古泉」






 ジーワ、ジーワ、ジーワ。
 ……蝉の声がうるさい。
 べったりと全身にかいた汗が気持ち悪かった。
 腕に感じる平たく堅い感触。目を開くとまぶしい窓と、その手前に逆光で暗い緑の塊――笹が目に入る。
 ……まぶしさに顔をしかめながら、ああそうか俺は部室で長机に突っ伏して寝ていたのか、と悟る。こんな暑い中でよく眠れたもんだ。起き上がりながら、頭を振る。まだちょっと頭が寝ているような感覚だ。
「おや、お目覚めですか」
 声に顔を上げると、そこには古泉がいた。
「……」
 思わず、しげしげと見つめる。にこやかスマイルは通常営業、手には何やらミステリらしきタイトルの文庫本を広げ、特に変わった様子はない。
「どうかなさいましたか?」
「……いや。お前だけか」
 部室を見回しても、いつも特等席でネットサーフィンをしているはずのハルヒも、どんなに暑かろうが寒かろうが平然と本読み人形と化している長門も、似合いの衣装で愛らしさを振りまきまくる朝比奈さんも、姿が見えない。
「ええ、そういえば、お三方とも今日はまだ」
 古泉がうなずくのを尻目に、俺はがしがしと後頭部をかいた。なんだろう。眠っている間、何か夢を見たような気がする。確か、夢の中でも部室にいたような……いや、むしろ俺は本当に眠っていたのか?
 まだ夢の続きを見ているようなふわふわとした気分で手を伸ばす。古泉の左手をつかんで引き寄せると、一瞬驚いたように腕が硬直する。
 が、結局古泉は引かれるままに手を俺に差し出した。
 この暑苦しさなどどこ吹く風と言わんばかりに夏服を乱れなく着こなして端然としたたたずまいでいるが、肌に触れれば相応に熱い。見た目は別世界にいるように見えても、ちゃんと今ここにいる人間の温度だ。
「あの?」
「何時だ。俺はどのくらい寝てた」
 時計の文字盤が読み取れなくて、俺は腕時計がついた古泉の手首をあっちこっちひっくり返す。
「……さほど長い時間ではなかったかと。30分も経っていません」
 俺に手首をつかまえられていることに戸惑った様子ながらも、古泉が言葉を添えてくる。どうやらそのようだ。
 しかし俺は時間が分かっても古泉の手首を見つめたまま手を離さなかった。
「あの……」
 腕時計の秒針が時を刻む。時計に注目してるせいで見えないが、きっと古泉はわけが分からない、という笑顔で俺を見ている。声がそんな感じだ。
「……動いてるな。ちゃんと」
 俺は秒針に目を落とし続けながら言った。
 古泉の手首を解放して顔を上げると、完全に笑顔を消した古泉の戸惑い顔が目に入る。おお、珍しいものを見た。
「あなたが何をしたいのかよく分かりません。……僕が認識していないうちに、また何か異常事態でも起こりましたか?」
 さあな。寝ぼけたついでにこの暑さに当てられたのかもしれんぞ。
「かき氷の一気食いでもすれば治るかもな」
 ああ、適当に言ったがマジで食いたいな、かき氷でもなんでもいいから冷たいもの。戸惑う古泉を置いてけぼりに、俺が気持ちよく伸びをした瞬間、ドアがバン、と開いた。


「やっほー!おっ待たせ!」
 毎度ながら蹴り開けるような勢いで飛び込んできたのは、我らが団長様だ。そんな勢い つけて開けんでも、ちゃんと開くのは分かりきってるだろうが。
 ハルヒは、この暑いのに己の持てるエネルギーを周囲に放射し続けているかのような笑顔でずんずんと部室に入ってきて、長机にどん、と何かを置いた。
「こんにちはぁ。ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「……」
 続いて朝比奈さんと長門。なんだ、女子はみんな一緒に来たのか。珍しい。
「というかみんなで家庭科室行ってたのよ。それより見て見て、これ!今日はかき氷作るわよ!」
 ハルヒがそう言っていましがた机に置いたものをぱしぱしとたたく。プラスチック製らしいデフォルメされたペンギンの頭にハンドルがついていて、腹にはぽっかりとくり抜かれたようなスペースがあいている。
「……かき氷機?今度はどこからくすねてきたんだよ」
「くすねてきたとは失礼ね!借りたのよ。みくるちゃんの友達が料理部でさあ、今日は部でかき氷大会だって言ってたから、使い終わったの貸してもらったの。やっぱこんな暑い日は冷たいものに限るわよね!」
「氷とシロップもちゃんともらってきましたよ。三色あるから好きなの選んでくださいねぇ」
 ハルヒの体感温度が5度ほどアップしそうな反論の声に、こんな暑さの中でさえ春の野を思わせる朝比奈さんの声が言葉をつぐ。
 見れば、朝比奈さんはシロップの瓶とかき氷を入れるのに使うらしい紙コップが入った袋を、長門はこれでもかと大量に氷が入っている袋を、それぞれ手に提げている。
「さ、そういうわけだから氷がとけないうちにちゃっちゃと削っちゃいましょ!」
 俺と古泉は顔を見合わせる。
 さて、これは誰の願いが叶ったのかね?
 ――決まってるじゃないか、こんなに暑い日に冷たいもののひとつも口に入れたいと思わない奴なんていない。世界はいつだって誰かの小さな願いで小刻みに変わり続けてる。
 どうせ俺が氷を削らされることになるんだろう。ならさっさと自分から動くさ、早くかき氷を食べたいからな。そう思って俺は席を立つ。
 が、俺を制して、ハルヒが言った。
「ああ、キョン、あんたはいいわ。……古泉くん!今日はあなたをかき氷屋さんに任命するわね」
 ……おお、珍しいこともあるもんだな。いつもはこの手の仕事はだいたい俺に押しつけるくせに。
「いいのよ、今回は。……さ、頼んだわよ。言っとくけど、あたし一杯や二杯じゃ満足しないから。ガンガン削ってよ!キョン、交代も禁止だからね」
 さっそく横暴なる命令が飛ぶ。古泉はもちろん笑顔で「……かしこまりました」と立ち上がったが、心なしか顔が引きつっていた。だろうな。健啖家のハルヒが満足するまでかき氷作らされるなんざ、俺もごめんだぜ。ざまあみろ。
「ええっ、それじゃ古泉くんがなかなか食べられなくてかわいそうですよぉ」
 天使・朝比奈さんがまさに天使のごとき優しさを発揮して口を挟んだが、すぐにハルヒに一刀両断されてしまう。
「ダメよ!今回はダメ!絶対にね」
 朝比奈さんにずいっと顔を寄せてアヒル顔でそう言うと、くるりと身を翻して古泉の肩を叩いた。
「むしろこのくらいで許してあげるんだから、感謝してほしいくらいよ。……ねっ!」
 許すって何を、と言いたいところだが、今回ばかりはハルヒに全面同意したい。少しはこれに懲りて反省するといいんだ、古泉は。
 笑顔のまま、戸惑うように、古泉は頷く。
「ええ……はい、ええと。ありがとうございます。……すみません」
 さっそく長門から氷を受け取っている古泉に、俺は横からこっそり声を掛けた。
「なあ」
 古泉が手を止めて、俺を見る。
「……お前が触れている世界は、いま、黄金か?」
 一瞬の、間。
 奴はきょとんとして俺を見たが、やがてはにかんだような苦笑をこぼした。
「さて?……少なくとも、僕らが貴重な黄金の青春時代を謳歌しているらしいことは、確かなようですがね」