傲慢な指が選んだ人生(消失if)



「なぜ、あのときエンターキーを押そうと思わなかったんです?」
 いつも爽やかハンサムスマイル、私立進学校に通う秀才にして坊ちゃんじみた優雅な雰囲気をいつも漂わせる優等生、古泉一樹がそれを俺に尋ねたのは、あの12月から半年、いや半年後からさらに3ヶ月も経ったある日のことだった。
 最近めっきり冷えてきた。夏から冬に一足飛びだった去年と違って、今年はきっちり秋がありそうだ。衣替えしたばかりのブレザーの腕をさすりながら、俺は古泉に目をやった。
 どこかおっとりと育ちのよさそうな空気をにじみ出させる古泉はスマイルを引っ込めてむしろ厳しい顔をしており、俺とは違う光陽園学院の黒い詰め襟をいつも通りきっちり着込んでいる。そんな着こなしで息が詰まらないのかね。
「押そうとは思ったさ」
 俺は言って、ぬるくなり始めた缶コーヒーを一口、口に含んだ。半端な苦さと酸っぱさと甘さが入り交じって、口の中を通り過ぎていく。やっぱ缶のコーヒーは苦手だな。
「思ったけど、やっぱやめた」
「……なぜ」
 俺の隣で、古泉もミルクティーの缶を持っている。が、さっきからずいぶん長いこと口をつけていないようだ。冷めちまうぞ、それ。
「色々な、考えはしたんだよ。ハルヒの奴は「不思議と出会ってるけどそれを知らされない、力を持ってるゆえの不自由」と「不思議には出会ってないし力もないけど自力で自由に探しに行ける」とどっちがいいかとか」
 ゆらりとひとつ、コーヒーの缶を揺らす。
「長門は「無表情で無感情で無謬で無敵な宇宙人だった代わりにハルヒのお守りに疲れきってたかもしれない頃」と、「引っ込み思案だけど自分の付き合う人間も進路も自由に選べる今」とだったら、どっちかと言ったら後者の方が良くないか、とか」
 たぷん、と缶の中でコーヒーの駅が回って揺れて、音を立てる。
「朝比奈さんはまあ……ハルヒに巻き込まれるかぎりあんま変わりなさそうだけど、七夕の時にさ、時間遡航したって話しただろ。その時に下っ端でわけも分からず指示だけ聞かなきゃならないって話は聞いてたから」
 カサカサと、秋風に草が揺れる。だんだんと木々の緑も鮮やかさをなくし始めている。
「……そして僕は、涼宮さんのために多大に時間を捧げて戦うよりは、ただの哀れな片思いの取り巻きでいた方がマシだろうな、と?」
 言葉を継いだ古泉の顔を見ると、その目が燃えるような感情を宿していた。
「ふざけた話です。なぜそんなことをあなたに選んでもらわないといけない?エンターキーを押すか押さないか、その判断基準になんで僕たちを入れるんです」
 上から目線で人の人生を選んで、神様にでもなった気分でしたか?
 今にも殴りかかりそうな目をしていたが、古泉が殴るような奴でないのはこの半年でよく知っている。
 俺は古泉から視線を外して、つい笑ってしまった。
「なにがおかしいんです」
「別に……お前らの人生を選んだつもりはないさ。俺は俺が満足する方を選んだだけだ。その時にお前らのことも考慮には入れたけど。……俺が選んだのは俺の人生だよ」
 もう一度古泉の顔を見ると、毒気を抜かれたような顔をしている。ほら見ろ。こいつは案外素直なたちなんだ。
「なあ、改変される前の世界のお前は、さ。ある日突然超能力に目覚めたんだ」
「知っていますよ。あなたから何度も聞かされましたからね」
「その時からお前の世界は一変した。……言ってみれば、お前はずっと12月18日に放り出された俺だったんだ」
 俺の言葉を、騙されるもんかという顔をしながら、でも素直に聞いている古泉。
「……エンターキーを押さなければ、俺とお前の立場は入れ替わったままだ」
 同情したわけじゃない。
「そうだな、お前の立場を手に入れることで、お前を手に入れたかったのかもしれない」
 ……古泉の顔が、間違って鉄砲玉を飲み込んだ鳩のような顔に変わった。呆れたような、聞かなきゃよかったというような顔だ。
「っは、お前、その顔!」
 思わず声を立てて笑えば、今度はむっとして、すぐに相手にするのもバカらしいとばかりに表情を取り繕った。
「……あなた、ますます趣味の悪い冗談に磨きがかかりましたね」
 そっぽを向いてミルクティーを口に含む横顔。
 俺はまだ笑いが収まらなかった。ああ、この反応。全部、以前の俺じゃねえか。
 趣味の悪い冗談に顔をしかめて、それでもついどこか素直に古泉の話を聞いてしまった俺。そしていつでも最後には煙に巻いて逃げる古泉。
 逃げる古泉の端っこを、俺はこんな形で捕まえた。
 誰のためでもなく俺のために、こんな傲慢で贅沢な人生の選択をした奴がいるだろうか。
 缶の底に残っていたコーヒーを飲み干し、古泉の横顔をもう一度見る。古泉は俺にうさんくさげな視線をよこしていたが、俺が何も言わずにただ見守っていたせいだろう、やがてそれがいたたまれなさそうな表情に変わり、居心地悪そうにそっぽを向いた。
 俺は、(きっと以前の古泉そっくりの表情で)苦笑する。
「悪いな、冗談も趣味の内だ」