やっぱり猫が好き



 時は夕刻。秋の日はつるべ落としというが、まさしくその通り。すでに辺りは薄暗い。もっとも、今日は雨が降っていたので、ずっと薄暗さを引きずってはいたのだが。
 そう、天候は雨。強すぎず弱すぎず、しとしとと降り続ける雨の中、傘を差した僕は立ち尽くしていた。
 場所は、僕の住む部屋に帰る道すがらの路上。狭い住宅街の道には、車通りも人気もない。
 そして、僕が立ち尽くし続ける目の前、電柱の陰に隠すようにして置かれた段ボール。
 ぺたりと閉じていたふたをわずかに持ち上げて顔を覗かせた子猫が、あわれっぽい様子で僕を見上げていた。
 どうしよう、見てしまった。でも僕はいま猫の面倒を見る余裕なんてものはない。そもそも僕の住みかはペット禁止物件だ。なのにその子猫は、救いの手になってくれとばかりにくりくりとした目を潤ませて、じっと僕を見上げてくるのだ。
 無理だ。でも僕は見つけてしまった。でも面倒は見られない。でも。でも。
 そんな無限ループに近い思考を続けるうち、ジッ、という音と共に、僕の上で街灯が灯る。このままでいてはいけないのは分かるのに。僕は完全に途方に暮れていた。
 そのせいで、僕の背後に接近した気配に気づかず、
「なにを、やってるのかしら?」
 膝かっくんされた。
「うわあっ!?……な、な、あ……も、森さん?」
「ボーッとしすぎです。不用心よ。これが任務中だったら査定にマイナスつけるところね」
 いつの間にやら僕の背後を取ったのは、あきれ顔で溜息をつく、森さんだった。


「はい。あなたもホットミルクでいいわね」
「……猫のついでとかひどくないですか」
「ついででもいれてあげるだけ感謝しなさいよ」
 捨て猫の前で途方に暮れていた僕が森さんに拾われて、約2時間ほど。森さんは僕と一緒に猫も拾って、てきぱきと獣医へ診せに行き、怪我や疾患の有無を確認したのち子猫の世話に必要なものを買い集め、森さんの部屋に帰り着いた。
 僕の目の前でほこほこと湯気を上げるマグカップ入りの牛乳は、いわゆる猫に飲ませても大丈夫、というあれだ。
 猫は猫で、皿から自力で飲み食いできる程度には大きい子猫だったので、ぬるめに温めた牛乳を、部屋の隅の真新しい段ボール箱の中で一心不乱に舐めている。
「感謝はしますよ、ありがとうございます。でももうちょっと労りとかそういうものがあってもいいと思うんですけどー」
 僕はそう言いながら、ごん、とテーブルに額をぶつけるようにして突っ伏した。
「はいはい、勤労学生お疲れさま」
「もっとお母さんみたいに優しく言ってください」
「調子に乗らない。……報告で聞いてはいるけど、三つ平行はやっぱり少しきつかったかしら」
 捨て猫前に何のリアクションも取れずにえんえん悩むくらいには判断力が鈍ってるみたいだしね、などと余計なことを言ってくれる森さんを、テーブルに突っ伏したまま首を巡らせて睨みつける。
「別にぃ、任務ですからー」
「口がアヒルみたいになってるわよー」
 男前二割増しってとこね、と森さんは苦笑する。
 文化祭を目前にした今、僕は涼宮ハルヒの映画撮影に付き合い、クラスの出し物の劇を覚え、さらに涼宮さんに楽しみを提供すべく、生徒会絡みの企画も担当している。
 きつくない、とは言わない。目の前に差し出されたものをこなせばいいという性質の仕事だけではないからだ。頭を使わないとならない。判断と緊張の連続。
 僕はまた首を巡らせて、テーブルとご対面した。視界が暗くなる。
「こすったらおでこ赤くなっちゃうわよ。顔が命でしょ、主演男優さん」
「寝て起きれば治りますー」
 ぐりぐりと、テーブルに額を押しつける。何も見えなくなった分、自分の内側が見える気がして、それをそのまま言葉にしてしまう。
「僕だってねえ、別に自分のやってることを一から十まで肯定してほしいなんて思ってないんですよ。自分のしんどさを当たり散らそうとも思いませんしー」
「うんうん」
「立場が違えば考え方もものの見え方も違いますしぃ」
「うんうん」
「でも少しくらい、労いがあったっていいと思うんですよねえ。とにかく頑張ってるのを少しでいいから認めてほしいっていうか。そうしたらまた頑張れるのになっていうかー」
「うんうん」
「……本当に聞いてます?」
 さっきからうなずき人形みたいにうんうんしか言わない森さんを、顔をずらして視線だけでまた睨みあげる。
「聞いてる聞いてる」
「……あやしいー」
 テーブルに行儀悪くあごをついた僕の額を、森さんが笑いながらつつく。
「やっぱり赤くなってる。もー、子供みたいなことして」
「どうせ子供ですよーだ」
 僕が頬をふくらませると、森さんはますます笑って頬もつついた。
「いつも子供に大人でいるよう要求して、悪いわねえ」
「別に、森さんが要求してるわけじゃないですしー。それに僕だってもう高校生ですー」
 普段学校で演じている古泉一樹をどこに置いてきた、という勢いでむくれた声を出しながら、森さんの手を避けて起き上がる。
 そう、森さんはそれが仕事とはいえ、いつも僕を認めてフォローをしてくれるし、むしろ時と場合が許せば僕をこうやって子供でいさせてくれる。家族でもない人間がそうしてくれることがどんなに貴重なことかは分かっているし、非常に感謝しているのだ。
 ずっと放っておかれたマグカップを手に取り、一口すする。少しぬるくなってしまっているが、飲みやすいやさしい味だ。
 にぃ、と猫が可愛らしい鳴き声を上げる。森さんがそれを聞いて猫の様子を見に立った。
 猫の世話をする森さんの背中をぼんやり眺めながら、ホットミルクをすすり続ける。こうしていると、やっぱり自分は疲れていたんだと実感した。
「……猫はいいなあ」
 思わずこぼしてしまった。泣き言みたいなものだ。僕があの子猫みたいに、あるいは、朝比奈みくるみたいに、かわいらしくてか弱くていかにも守るべきものだったら。彼は僕の頑張りを認めてくれるだろうか。
「猫にでもなってみたい?」
 ミルクの皿を片付けながら、森さんが笑う。……森さんは、実は背中に第三の目を持っていて、その目で読心術でも使えるんじゃないかと思う時がある。
「……別に。猫なんか嫌いです」
「あらそう」
 僕の子供っぽい矛盾した言動も、森さんは暖かくスルーしてくれる。いや、生暖かく、かもしれない。でも暖かろうが生暖かろうが、温度のこもった対応が、僕にはありがたい。
 ……別に、誰も彼もから温かみのある対応をしてもらえなきゃ我慢できないなんて言わない。
 彼の、一見やる気のなさそうな、眠たげな目を思い出す。突き放すようなマイペースさといい、猫みたいだとよく思った。涼宮さんの力を知りながら敬遠するでも追従するでもなく向き合い仲良くケンカする、長門さんの人間味がなさそうに見える顔の中に表情を見つける、朝比奈さんを愛でることをやめない、僕とのボードゲームの手応えのなさにあくびをかみ殺す、そんな、容赦なくマイペースな猫。
 容赦はないけれど、僕には女子に対するような気遣いもないけれど、でもそこにあるのは冷たさでも、ない。毎度どんなにあくびをかみ殺しても、彼は僕とのゲームに付き合い続けてる。
「……やっぱり、猫は好きかも」
 ぽつりとこぼした僕の言葉に返ってきたのは、森さんのやっぱり暖かいスルーだった。
「はいはい」