三回目のそうじき
「失礼いたします、古泉総長……」
威儀を正して敬礼と共に入室した俺は、思わず顔をしかめた。つい漏れた、うげ、という声つきで。
「ああ、どうも……資料はこちらに持ってきて下さい」
上官の前で出していい声ではなかったのだが、その上官こと古泉一樹幕僚総長は、全く気にした様子もなく、ベッドにうつぶせ、眠そうな声で言った。というか実際眠いのだろう。ほんの2時間ばかし前まで執務室に詰めていて、上がったばかりだったはずだ。取るものもとりあえず眠っていたに違いない。
軍人よりも俳優か何かの方がよっぽど向いていそうな優男の上官は、けだるげに髪をかき上げて身を起こす。
「……お休みのところ、申し訳ありません、いよっ、と」
そのベッドまでの道のりは、足の踏み場というものがなかった。ここは一応幕僚総長にあてがわれた私室だから、どう使おうと本人の自由ではあると思うんだが……ものには限度ってものがあるだろ。訪ねるたびに散らかり方がひどくなってる気がするんだが。
「いえ、急ぎなのでしょう?僕の決裁が必要な案件である以上は、仕方ありません」
俺が四苦八苦しながら、部屋の床に散乱する衣類やら本(今どき珍しい、紙製の『本』だ)やら、踏んではまずそうなものを避けてベッドへと歩み寄る間に、古泉総長はベッドの上に起き上がって座り、居住まいを正しながらも苦笑いしている。
「仕事で忙しくしているせいか、片付ける暇がなかなかなくて」
上官の前で渋い顔をする俺に気を悪くした風でもなく、幕僚総長は俺が持ってきた端末を受け取ると、そこにに表示された文書を静かに閲覧し始めた。
……どうにも不思議な男だ。俺よりいくらか年上ではあるものの、まだ若い。しかしかなりのやり手で、わざわざ引き抜かれて、この艦隊の幕僚総長に就任した。そのことに増長する様子もなく、誰に対しても柔らかい物腰と敬語を崩さない。
「それにしても、どうかと思いますよ。こんな状態では休まらないでしょう。健康にもよろしくありません」
すでに三回はこの部屋を訪れているが、毎回毎回同じような反応をして同じような会話をしている気がする。
増長しない年若いやり手。そのくせ自分のパーソナルな空間は散らかしっぱなし。気になるじゃねえか、このアンバランス。
幕僚総長は苦笑いするばかりだ。
「分かってはいるのですが……なかなか、ね」
「クリーニングサービスを頼めばいいじゃないですか」
「ここにある本のほとんどは僕が趣味で収集した希少本ですし、仕事の資料を持ち込むこともあります。あまり、他人は入れたくないんですよ」
「でしたら」
これを言うのも三回目くらいだ。自分でもなんでこんなに食い下がっているのか分からない。この古泉総長は鷹揚な方だが、もしももっと短気な上官が相手なら、そろそろ手が上がるころかも知れない。相手が引いているラインを、俺はわざわざ踏み出しそうになっている。
「でしたら、自分が片付けましょうか」
仕事はスマートにきっちりこなすし、部下への態度も柔らかい。けれど、そのスマートさと柔らかさの奥に、いつもこうやって一線を引かれているのが気になるのだ。はっきり言ってしまえば俺はそれが嫌だった。
上官に対して思うようなことじゃない。ここは軍で、仲良しクラブでもない。やるべきことをやった上で、線引きを心得ているこの幕僚総長は、むしろ軍人としても一個人としてもできた人物なのだろう。部屋の片付き具合はともかく。
だが、俺をこの艦隊に引っ張ってきた上官――司令官殿が、俺の士官学校時代の同期で、気心の知れてる奴だったせいか、仲間内で腹芸じみたことをするのは性に合わないのだ。
もう少し、手の内を見せてほしい。笑顔の内側を、明け渡してほしい。
「……内容は確認しました。作戦参謀。いくつか質問を、いいですか」
幕僚総長は、俺の申し出には答えず、どころか端末から顔も上げずに言った。
「…………はい」
悔しい。いつも、歩み寄ろうとするたびにかわされる。
事務的な質疑応答を交わしながら、俺は直立不動のまま、拳を握りしめた。
……俺が持ち込んだ仕事は、いくら急ぎとはいえ、本来なら俺が自分で動いて幕僚総長の私室を訪ねるほどの案件ではない。事務方にお使いでもさせれば事足りるし、あるいは文書データだけを送って必要な質疑は通信ででも行えばいい。そうして俺自身が抱えている案件の処理にこそ時間を割くべきだ。
なのに、もう三回も、理由をつけてここに来てしまった。
裁可は無事に下り、幕僚総長から端末を返される。俺はそれを受け取りながら、口を開いた。
「幕僚総長」
「なんでしょうか」
「アース時代の故事成語に、こんな言葉があります。いわく、三顧の礼と」
優男は、怪訝そうな顔で俺を見上げてくる。
「軍師を口説き落とすのに、三度通い詰めた、とか。自分があなたの部屋に来るのもこれが三回目です。三度目の正直、という言葉もありますし……少しは口説き落とされてみようという気には、なりませんか」
……言ってから、いくらなんでもこれはどうなんだ、と思った。
目の前の上官は、珍しくも、呆気にとられたらしい顔をしている。ぽかんと口を開き、軽く見開いた目元が、いとけない。
やばい。これはやばい。じわじわと、頬に熱がのぼり始めるのが分かる。古泉総長の呆気にとられた顔など初めてだ。それだけダダ滑りな発言をしてしまったのだと自覚される。
衝動的に、TPOをわきまえず、頭を抱えて床を転げ回りたくなった。何やってんだよ、俺。ほんと何やってんだよ、ああちくしょう!
総長の反応を見ていられなくて、床をにらみつけていると、ぷ、と吹き出す声。ついで、軽やかな笑いが耳をくすぐった。
「ぷ、っはは、あなたという人は……あははは」
顔を上げると、肩を震わせ声を上げて笑う幕僚総長という、これまた初お目見えの光景を目撃してしまった。
ますます顔に血が上るのが分かる。いや、顔どころか耳まで熱くなってきた気がする。
俺の様子を見て取って、総長は笑みを残しながらも笑い転げるのをやめた。
「すみません、笑いすぎました。……いいでしょう。そうですね、とりあえず、あなたももう少しで上がりでしょう?仕事を上がったら、掃除機でも持って、またここにおいでください」
……は。
あなた自身の申し出です。片付け、手伝ってもらいますよ。そう言って、ウインクする上官の言葉が、少しずつ、少しずつ頭に染みて……
理解したとたん、また爆発的に顔に熱が集まるのを感じた。
「少しだけなら、落とされてみるのも面白そうです」
くすくすと、涼しげな笑顔が、小首をかしげる。
ちくしょう、これは喜べばいいのか悔しがればいいのか?仮にも俺は作戦参謀のくせに、作戦もへったくれもない、強引な正面突破をしちまった。あまりの稚拙さに呆れられて譲られた気しかしない。
頭の中を、茹だったような血が巡る。悔しいのに、TPOもわきまえずに躍り上がりたい気持ちもある。それでも矜持を保ちたいらしい俺は、精一杯しかつめらしい調子で、強がりを口にした。
「……僭越ながら、少しだけ、という見通しは甘いと申し上げさせていただきます。掃除用具一式持って、伺いますから。徹底的にやりましょう」