嘘は一回まで



「あなたが好きです。どうか僕の思いに応えては下さいませんか」
 こんなセリフを、こんな美声でもって、こんな無駄な美形に言われる経験などというものは、そうないに違いない。ていうか普通はない。
 教室の窓を背にした古泉の表情は、逆光で分かりづらい。窓の外は明るい青空で、ちぎった綿のような雲が浮かんでいる。春の、のどかな陽光が眩しい。
 眩しさの中で、俺は古泉が柔らかく目を細めるのを見た。柔らかくて、しかし真摯な。
 目眩がする。外の眩しさに目がくらんだんだと思いたい。頭はくらくらして、頬が熱くて、発汗が少しばかり促進されている。そして心臓がやたらめったらに働き始める。そんなにがむしゃらに働いたら過労死するぜ、やめておけ。
 ばくばくばく、と動脈が伝える心臓の脈動を耳の後ろで聞きながら、俺は乾いた唇をなんとか動かした。
「……嘘、だろ?」
 あんまりにも唐突で信じられん。これまでそんなそぶりは見せなかったくせに。嘘じゃないなら、証拠を見せろ。
 俺の言葉に、古泉は困ったように眉尻をハの字に下げ……
「「「そうですうっそでーす!」」」
 いきなりガラッと教室の引き戸が開いて、賑やかな声が闖入してきた。
「あっははは、キョンってば、その鳩が豆鉄砲食ったみたいな顔!そんなにびっくりしたの?」
「いやーっ、悪いねっ。びっくりしちゃった?」
「キョンお前ビビり過ぎだろー。しっかりしろよ、今日エイプリルフールだっつの!」
 声の主の先頭は、大喜びのハルヒ、そして鶴屋さん、谷口。さらに後ろに苦笑いする国木田、そして申し訳なさそうな朝比奈さんと、相変わらず顔に表情が出ない長門。
「な、……おま、おまえら……」
「すみません、そんなわけでして。ちょっとしたサプライズでした」
 声に振り返れば、両手を広げて苦笑いする古泉。……こ、この!この野郎!この野郎!
 古泉につかみかかってヘッドロックをかけ始めた俺を見て、ハルヒや鶴屋さんや谷口はさらに湧き、国木田はほどほどにね、と笑い、朝比奈さんはおろおろなさり、長門はやっぱり無表情。
 そして古泉は、「痛い、痛いですよ」と言いながらされるがままだった。


「ったく、ハルヒめ。まさか俺1人にターゲットロックオンしてあんなイタズラしてくれるとは思わなかったぜ」
 階段を上りながら、俺はぶつくさとぼやいた。
 朝、登校したら俺の下駄箱に手紙が入っていた。見覚えのない女子っぽい字で、『放課後五組でお待ちしています』。この時点で嫌な予感がした俺だったが、放課後部室まで行ってみれば、団活は休業、という張り紙がドアに貼られていたため、とりあえず手紙の件を放置するのもどうかと思って五組に向かってみた。
 したらば古泉が待ち構えていて、さっきのアレだ。思い出すだけで心臓に悪い。俺の黒歴史にまた新たな1ページが追加されちまった。
「ご愁傷様です。ターゲットは涼宮さん自ら作って引いたクジの結果ですからねえ。しかたありません」
 隣を行く古泉が苦笑いする。俺たちのだいぶ前を、ハルヒたちが元気よく駆け上っていき、踊り場の向こうに消えていくのが見える。俺は今日はもうあそこまでの元気は出ない。「キョンー、古泉くーん、あんたたちも早く来なさいよー、おいてっちゃうわよ!」なんて声と、笑い声と、引っ張られてるらしい朝比奈さんの悲鳴とが、ずんずん先に行ってしまう。
 サプライズが終わったところで、これから屋上で花見会をするのだそうだ。まあ、ちょうど桜が見頃だし。
 しかし、桜の木の下で、じゃないところがあいつの面白いところだ。校内や山の中、通学路なんかに立つ、ピンクの霞のような桜を屋上から見下ろす眺めはさぞかし気持ちいいことだろう。今日は半ドン終了だったからまだ日が高い。屋上で吹きっさらされても多少なら平気だろうしな。
「それにしたって悪趣味なネタだぜ。野郎から野郎に告白なんて。トラウマもんだ」
 古泉お前、俺にトラウマ作った罰でメシおごりな。一番高いメニュー頼んでやる。
「おやおや……それは、覚悟をしておきましょう」
 ばか、嘘だ。本気にすんな。
「それはそれで残念です。あなたには日頃からお世話になっていますから、食事のひとつくらいおごるのもやぶさかではないと考えていたのですが」
 肩をすくめる古泉を、俺は横目で見ながらふん、と鼻を鳴らした。
「ところで……気づいていましたか?今日はエイプリルフールです」
 知ってるさ。さっきトラウマもんのペテンにかけられたおかげでな。
「あまりいじめないでくださいよ。……あなたは不自然さを感じませんか?」
 ……あーはいはい、言いたいことは察しが付く。
 日はまだ高く廊下も差し込む陽に照らされて明るいが、放課後の学校にはもうすっかり人気がない。残ってるのは多少の教職員くらいに違いない。今日も活動するような熱心な部はうちの学校にはないはずだ。
 そりゃそうだろう。なにしろ今日はエイプリルフール、4月1日だ。俺たち学生は春休みのまっただ中なんだからな。 
「……ハルヒのパワーはホントはた迷惑きわまりねえな。学校全体が、今日は学校があるっていうハルヒの嘘に騙されたわけだ」
 春休み中に登校日がわざわざ設けられているわけでもない。なのに、俺たち、北高生も職員も、休みの日にわざわざ学校にのこのこやってきてしまった。ここまで規模がでかいエイプリルフールの嘘もそうはないぞ。しかもみんなが本気にしちまったときたもんだ。頭の中で、ハルヒが腰に手を当てて仁王立ちして笑っている図が見える。やーい騙された。
 古泉がくすくすと笑う。
「涼宮さんはおそらく、皆でエイプリルフールを楽しみたかったのですよ」
 ゆっくり登っていたせいか、ハルヒたちのの足音はだいぶ上の階までいってしまっている。声と足音だけが、遠くで賑やかに、反響する。
「SOS団だけで楽しむのなら、なにも春休みに勝手に登校日を作ってしまう必要はありません。電話一本かければ、招集に応じないメンバーはいないでしょう。つまり、涼宮さんは我々だけでなく、日常の多くの時間を過ごす学校という場で、学友という広い意味での仲間たちとも、今日を共有したかった」
 ふん、分かってるさ。今日は教室でも多少仲良くなった女子どもとなにやら笑いあってるのを見たし、今日のペテンや花見に国木田や谷口、鶴屋さんを付き合わせてるのもいい証拠だ。
「その通りです。僕はこれを喜ばしい変化だと思いますよ。つまるところ涼宮さんは、己を取り巻く世界そのものを、ずいぶんと愛するようになった」
 そう言った古泉の目の中にこそ、俺は愛おしむような色を見つけた。
 こいつが愛おしんでいるのは、ハルヒなのかもしれない(いつかの冬に聞いた「僕は涼宮さんが好きなんですよ」が耳の奥に蘇る)し、あるいは自分を取り巻く世界そのものかもしれない。
 顔を向けると、ハンサム野郎は小首をかしげてこちらを見返してくる。
 さっきの告白が脳内再生される。五組の教室で、こんな風に古泉は柔らかく目を細めて。
 ……周囲には、人の気配はない。
 とっさに、古泉のネクタイを捕まえた。素早く伸び上がって、唇を合わせる。目を閉じる寸前、古泉が目を見開くのが見えた。
 すぐに唇を離して目を開くと、間近に古泉の顔がある。俺の感想は、この野郎はどこまで近づいてもやっぱりハンサムだな、とか、けっこう柔らかかったな、とかだった。
「ええと、……これも、……エイプリルフールの、嘘ですか?」
 めずらしく笑顔をなくした色男は、頬をわずかに染めて、消え入るような声で言った。
「バカ野郎、嘘ならさっきついただろ……エイプリルフールといえど許される嘘は一回までだ」
 古泉は落ち着きなく瞬きを繰り返しながら、俺を見つめている。さっきまでの朗らかさはどこにやったんだ。こっちまでなんか恥ずかしいじゃねえか。
「お前も嘘はつくなよ。……せめて今日は、もう」
 恥ずかしくはあったが、こいつの動揺した顔なんてもんはそう拝めるものじゃない。俺はなんだか浮かれた気分でそれを眺めていた。
 古泉の色白な頬は、相変わらず淡い朱に染まっている。長い睫毛に縁取られた瞼が、だんだんとこっちに近づきながら、降りて、奴の瞳を覆い隠す。
 俺も、また目を閉じた。こういうときはそうするのがマナーだからだ。
 返事が、俺の唇に降りてきた。