耳を澄まさなくても



 夜明け前のぴんと張り詰めた空気が、僕は好きだ。
 空が白み始める直前の、冷たく澄み切った青い空気。静寂をかえって増幅させるような、大気の鳴る音。
 それが、確かに1日が新しく生まれ行く時間なのだと分かる。静寂と、不思議なバランスを保った緊張に満ちた、「今日」が目覚める直前の、ゆりかごの時間。
 涼宮さんが1日に何度も閉鎖空間を発生させていたような頃から、その処理が終わった明け方にこの時間に感じ入る瞬間が何度もあった。大した余裕だと思うが、いや、あるいは使命に追われて余裕なく過ごしていたからこそかもしれない。
 その時だけは、肩の力を抜いて、世界の鼓動に耳を傾ける。そうやって安心したかった。「今日」と一緒にゆりかごに抱かれて。世界はちゃんと始まるのだと。
 今では涼宮さんの憂鬱はなりを潜め、はち切れんばかりの明るさが彼女の中に満ちている。閉鎖空間を発生させるのは、せいぜい明け方の夢見が悪いときくらいだ。
 深く寝入っている時間にたたき起こされるのは少々つらいが、彼女の鬱屈の深さに心を痛めながら閉鎖空間を処理していた頃に比べれば、お安いご用というものだ。
 今頃彼女は、夢の中の憂鬱も忘れて、眠ってくれているだろうか。
「……何考えてんだよ」
 ぴゅうぴゅうと風を切る音に混じって、前から、むすっとした声がした。彼はいつだってむすっとしたような、ぶっきらぼうな声だ。けれどその奥にある温かさを僕は知っている。
「思い出していました。今が僕の一番好きな時間帯で、それがどうしてだったかを」
 彼の肩に置いた手からも、温かみは伝わる。耳元で鳴る風も、それに躍りはためく髪も、冷え切って痛いくらいだ。でもそれも気にならない。
「どうして、だったんだ?」
 自転車の後ろに立ち乗りする僕と、彼自身、2人ぶんの体重がかかったペダルを、彼は少々難儀しながらも力強く漕ぎ続けていた。
 星明かりが次第に消えていく中、東の空に、明けの明星がひときわ輝く。まるで彼のようだ。いつもそこにいてくれる。決して見失うことはない。
「地球は確かに回っていて、そして僕があなたと一緒にいられる今日という日を運んできてくれた、それを実感できるから」
「……お前バカだろ!」
 風に、潮の香りが混じり始めた。海がもう近い。
 青いばかりだった空も、次第に明るさを増している。日の出まで、あともう少し。
「バカでもいいですよ、あなたが好きです!」
 視界が開けて、海が眼前に広がる。
 寄せては返す、潮騒の音。彼は漕ぎ続けた。
「……っこの、この野郎……」
 わずかに覗く彼の耳は、真っ赤だ。寒さのせいかもしれないし、それ以外のせいかもしれない。潮騒と風の音を切り裂いて、彼は叫ぶ。耳を澄まさなくても、僕に一番に届く、声。
「俺だってなあ、俺だって、お前が大好きだ!」


 ……ゴッ。
 脳天に会心の一撃。
「……〜〜っ、」
 僕はクッションを腹に抱いたまま頭をかかえた。
「痛いです!」
 痛みをこらえて抗議すると、握り拳を固めたまま、仁王像のような顔をした彼と視線がぶつかる。
「そうだなお前はいろんな意味で痛いな。というかなんだそのイタい妄想は!」
「いいじゃないですか、想像するくらい。僕はそういういかにもな青春の1ページに憧れていたんです。映画の耳をすませばみたいに夜明けに向かって好きな人への愛を叫」
「うるさい黙れ!百歩譲って妄想するだけならまだ許してやるさ。だが、」
 そう言うなり、彼は拳を僕の脳天に押しつけ、
「クソ恥ずかしい妄想を言語化するなそれを口から垂れ流すなよりによって俺の目の前で!」
 ぐりぐりぐり、とねじ込む。
「痛い痛い痛い!痛いですってば!」
 慌てて彼の手から逃れれば、彼も追ってはこない。肩で息をしているが、仁王像だった形相が若干穏やかになった。
「……あなたは、そういうのは、嫌ですか?」
 僕は今すぐにでも、あなたへの気持ちを叫びたいくらいです。手が届かないと思って諦めていた、くだらない痛い憧れを口に出せるくらい、幸せで。
「……俺はこんな場所で青春物語をやる気はない」
 彼はいつも、僕の感じる幸せの閾値が低すぎると言って、怒る。うつむいた僕のあごを、彼は両手でぐわしと掴んだ。
「こんな集合住宅の一室で、しかもそろそろ皆さん寝静まろうかという時間帯に、思いの丈をシャウトするような近所迷惑でイカレた思考回路は持ち合わせてないと言っとるんだ!」
 その勢いで、なぜか頭突きを食らわされて目の前がちかちかする。僕の妄想も痛いかもしれないが、彼の愛も、ちょっと、その、痛い。
「明日は海に行くぞ。早起きしてな。人がいない時間帯にすべて事を済ませて帰ってくる」
 彼は僕を立たせて引きずっていくと、そのままぽいっと僕をベッドに放り込んだ。いえ、まあ、もともとパジャマに着替えてあとは寝るだけだったのでいいんですが。
「そうと決まればほら寝るぞすぐ寝るぞ3秒で寝るぞ!」
 僕の隣に滑り込んできた彼は、本当に就寝する気のようだ。
「のび太ですか、あなた」
「うるさい黙れむしろお前ものび太になれ」
 彼はそう言って僕の目を手のひらで覆ってしまう。
 視界を塞がれ、彼の温かさだけを感じて、しょうがないなと僕は力を抜いた。
 耳を澄まさなくても確かな形で感じ取れる、彼の心を感じながら。