キョンが古泉をよーしよしよしよしする話。
さて。皆さんは犬がお好きだろうか。俺はわりと好きだ。
お前んちで飼ってるのは猫じゃねえかというツッコミもあるかもしれんが、猫ももちろん嫌いではない。
我が家の愛猫シャミセンはなりゆきで俺が引き取ってきたが、それなりに愛着を持っており、また良好な関係を築いているつもりである。
もしシャミセンが再び人語を操るようになったら、「キミが私の反応を勝手に好意的に解釈しているだけ、という可能性も常に否定はできまいな」くらいは言うかもしれないが。
それはさておき。俺んちの近所には、でっかい犬を飼っている家がある。なんと驚け、シベリアンハスキーだ。狼のような強面に青い眼で見た目は怖いが、フレンドリーで愛嬌のある奴である。
犬をわりと好きな人間と人間にフレンドリーな犬が行き会えば意気投合して遊び出す、というのはまったくもってよく見る光景であり、俺も散歩中のそいつと行き会うたびに構わせてもらうのだ。
その日は、学校の帰りにたまたま古泉と一緒に歩いているときにくだんの犬を散歩させている飼い主宅の奥さんとばったり会った。
「あらあ、キョンくん!こんにちは」
こんにちはッス、と俺も挨拶を返す。……ご近所さんにまで俺のあだ名が浸透している件ついては、何も言わないでほしい。妹という名の子供の口に戸は立てられないものなのである。
「チョビー、お前も元気してたかー?」
そう、尻尾をぶんぶん振って俺を見上げているこのシベリアンハスキー、でかい身体にに似合わず名をチョビという。
由来を聞いてみたことはないが、きっと某獣医漫画だ。見た目がそっくりだから間違いないね、カシオミニを賭けてもいい。
チョビの頭やあごをわしわし撫でてやると、尻尾をますます振って、後ろ足で立ち上がってきた。
まあ小さい犬ではないので(なにしろ立ち上がると俺の肩くらいにはなる)、けっこう重い。自転車を押していた俺はよろけそうになったが、なんとかバランスを取って引き続き撫でてやった。
するとチョビは俺の顎をべろべろと舐め回してくる。特別なにか食い物等の便宜を図ってやったわけでもないのに本当にこいつはなつっこい。まあだいたいの人間にも動物にも愛想がいい奴なんだが。
「ひっ」
そのとき、なにかが息を呑むような音がした。音というか、声。俺の隣から。
そして俺はそこで気づいた。こういうとき無駄ににこやかに愛想を振りまいて飼い主の奥さんに挨拶しそうな奴が、だんまりを決め込んでいることに。
「……古泉?」
隣にいる古泉を見ると……顔面蒼白だった。肩に掛けていた鞄を、しっかりと抱きしめ、硬直している。
「おーい、大丈夫か古泉ー」
声をかけてみると、古泉ははっと我に返ったようだった。
「え……あ、ああ、ええと……すみません、その」
俺はその様子にポカンとしてしまった。
いついかなる時もかっこつけた立ち居振る舞いを忘れない(しかもそれが様になってるもんだからまた忌々しい)こいつが、視線をせわしなくさまよわせ、いつものなめらかでくどいトークなどどこへ置いてきた、という風情だ。
なんというか、ぶっちゃけ挙動不審である。
「あらー、ひょっとしてお友達は犬ダメだった?ごめんなさいね、気がつかなくて。ほらチョビ、もうおしまい。行くの」
飼い主の奥さんがリードを引っ張ると、チョビは「やーん、もっと」と言わんばかりの顔をしたが、何度も促されるとしぶしぶ俺から離れた。
チョビと飼い主が去り、俺と古泉も俺の自宅の方向に歩を進めることにする。
「……お前、犬ダメだったのか」
阪中の犬の件のときには平気そうに見えたんだが。
「ダメというわけではありません。……ただ、ああいう大きな犬とは接したことがなかったもので……。あの犬が立ち上がったときはあなたに危険があるのではと慌てましたよ」
あるわけねえだろ。尻尾ぶんぶん振ってるの見えただろうが。
「それは分かっていますが、なんというか、体格といい顔付きといい、迫力が、その」
まあ分かるけどな。チョビは強面だし、ただでさえでかい犬が喜び勇んで飛びついてきたら、苦手な奴は怖かろう。子供なら確実に泣くレベルだ。
まあとりあえず、お前の弱みを一つ握れたのは悪くない。
俺がそう言うと、古泉は眉間にしわを寄せながら鉄壁の笑顔を作るという器用な真似をして見せたのだった。
「ですから犬がダメなわけではありませんってば」
と、そんなことがあったのが数日前のことである。
今日は週末土曜。いつも通りSOS団市内探索が実施され、午後はたまたま俺とハルヒが一緒であり、かつ古泉が同行しない組み合わせになった。具体的には、俺・ハルヒ・朝比奈さん組と、古泉・長門組だ。
そしてまた、たまたま、俺たちはペットショップを覗くことになり、たまたま、そこは大型犬も扱っていた。
そのおかげで俺はチョビと古泉の一件を思い出してしまい、たまたま、ぽろっとハルヒの前でしゃべってしまったのである。
言い訳させてもらうが、さすがに俺もハルヒの前でイメージを保つべく努力している古泉の情けないエピソードを、積極的に開陳しようと思ったわけではない。俺にだってこう見えても友情というものはある。
ハルヒが手洗いに行っている間に朝比奈さんとの世間話を楽しんでいただけなのだ。そこにたまたま、ハルヒがバッドタイミングで戻って来やがった。そういうわけだ。
ここまでくればなんとなく想像がつくだろう。
俺は現在、長門の部屋にいる。
午後の探索の時間が終わって集合場所に戻ると、待っていたのは長門だけで、古泉はと尋ねてみれば、バイト、という単語が返答として返ってきただけだった。
ハルヒの機嫌は別段悪くなかったように思うのでどうしたんだろうと首を傾げつつ解散した矢先に、長門からメールがきた。いわく、私の部屋に来て、と。
素直にその言葉に従った俺を待ち受けていたのは……長門と、一匹の犬だった。
ふわふわと波打つ金茶の毛並みと垂れた耳、そして潤んだ真っ黒い瞳。そいつは、犬種で言えばゴールデンレトリバーだった。
どうしたんだこの犬。おとなしいな。撫でてもいいか。
「それは古泉一樹」
いつもの居間のこたつの前に端座した長門は、リビングの床にぽつんとおすわりしている犬を視線で指してそう言った。
……つねづね長門の説明は簡潔すぎると思う俺だが、今回は説明としてはそれで充分だった。
なぜならハルヒにうっかりこぼしてしまった古泉のエピソードに関して、悪いことをしたという思いが少なからずあったために、すぐに経緯を連想できてしまったからだ。
つまりこういうことか。古泉が大型犬が苦手だという話を聞いたハルヒ→古泉くんが犬嫌いを克服できればいいのになあ→だからって古泉自身を大型犬にしちまうっていう発想はどうなんだよ!犬に慣れさせるためとか言ったら張っ倒す自信があるぞ。
「あなたの理解にはノイズも多いが概ね間違ってはいない」
ああそうかい、ありがとよ。
犬と化した古泉は、おとなしくじっと座っている。こういう時に奴のくどい説明がないのは物足りない気もするが、まあどうせ聞いても理解が追いつかないので一緒だ。
「で、どうすりゃいい。古泉が元に戻るには」
とりあえず古泉に手を伸ばし、顎の下をぐりぐり撫でながら、俺は尋ねた。ふわふわすべすべとして、非常に手触りがいい。人間の奴の髪もさらさらで手触り良さそうな感じだったが、犬になっても毛並みがいいんだな。
古泉は、嫌がるようにそっぽを向いた。古泉のくせに生意気な。首根っこをつかまえて、背中や耳の後ろをわしわし撫でる。
うーむ、こいつが古泉かと思うとむかつくが、この手触りには癒される。
「何も」
「何も?何もしなくても勝手に戻るってことか」
片腕で古泉の首をホールドしたまま頭をなで回したり耳をめくりあげたりしてみる。きゅーんきゅーんとあわれっぽい鳴き声が聞こえるが、まあ古泉だからいいだろう。
「そう」
「いつ頃戻るんだ」
俺にいじられるたび、くんくんきゅんきゅん鳴いて逃げようとするが、古泉は特に暴れる気はないようだ。
どこまで人としての理性が残ってるのかは興味深いが、とりあえず今は肉球の感触を楽しむ方が先決である。猫の肉球に比べるとだいぶごっついが、それがいい。揉みごたえも十分だ。
「そう長くはかからない」
「というと?」
ひぃんひぃん、と古泉が抗議の声を上げる。俺はお構いなしに古泉を床にひっくり返して喉をわしわし撫でまくった。
「今」
長門がそう言った瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。気がした。
手に感じる感触が変化しているのに気づく。あのふわふわですべすべの毛皮の感触は消え失せて、代わりに滑らかで温かい人肌の感触。
「だ、だからやめてくださいって言ってるじゃないですか……」
目の前に、半ば涙目になって頬を染めている、いつもの古泉がいた。
俺はとっさに状況を飲み込めず、固まったまま目をしばたかせた。ええと、つまり、俺は、床に仰向けに転がる古泉にのしかかり、喉元を撫でている……
「うおっ!?……なんだよお前戻るなら戻るって言えよ!空気読め!」
俺は全力で壁に投げつけたスーパーボールでもここまで跳ねないというくらいのスピードで、古泉の上から飛び退いた。
うお、ビビった。心臓ばくばくいってるぜ。
「言えるわけないでしょう。僕は自分が元に戻るタイミングを知りようがありませんし、涼宮さんの中の常識に照らして、犬は人語を操れません」
珍しくふてくされた顔をしてむくりと起き上がった古泉が、服をちゃんと着ていたのは不幸中の幸いだったかもしれない。これで何も着てなかったらいろいろ痛すぎる。
古泉は立ち上がりながら、疲れたように溜息をついた。
「とりあえず……長門さん、異常は」
「ない。あなた自身にも、その周辺にも。涼宮ハルヒによる改変は収束した」
さて、それでは問題も解決したしおうちに帰りましょうかねという段になって、俺はふと気になって長門に聞いてみた。
「なあ、俺はなんで呼ばれたんだ?」
あんな短時間で、しかもほっといても戻る異常なら、お前が古泉を保護した段階で処置は終わりのような気がするんだが。
長門は数ミクロンだけ首を傾げ、しばしの思案の後、答えた。
「あなたが喜ぶと思ったから。……違った?」
……いーや、何も違わないさ。
俺と古泉は、二人して苦笑いしながら肩をすくめるしかなかった。